不治の病の恋人

↑「あとで」は、しおり代わりに使えるよ↑

原案:ぱず  執筆:佐和島ゆら

 


 

 

第一節「ひとりだけの部屋」

 血を吐き出す。血というのは真っ赤だと思ったが、意外と黒い。

 優香の白いワンピースは血に染まった。

 驚き、震える瞳で、正面を見る。

 自分に寄りかかってくる恋人。

 その顔を見る。

 恋人は……リョウは、真っ青を通り越して白い顔だった。

 荒く息を吐くリョウ。ひゅーひゅーという音が聞こえる。

 呼吸がうまく出来てないと悟った。

 あまりの衝撃で動けない。どうしてこうなったという思いにかられる。

 自分たちはいつものように二人で出かけていただけじゃないか。

「ごめん……優香……」

 おぼつかない声。リョウの瞳はゆらいでいる。

「ワンピース……汚して……」

 最後の声はほとんど聞こえなかった。

 リョウを胸元で抱きながら、優香は叫ぶ。

 悲痛な声はあたりの空気を切り裂くように響き続けた。

 

 汗が噴き出る。

 冬の室内だ。暖房も止めたので冷え切っていた。

 しかし風邪でもないのに汗がとまらない。

 ストレスのためだろうとすぐに分かった。

 寝ている間悪夢を見続けていた。

 優香はぼんやりと呟く。

「また……あの夢……」

 恋人が血を吐き倒れる夢を見た。

 ただの夢だったら、悪夢だと言って忘れることも出来るだろう。

 しかしそれは現実に起きたことだった。

 過去の記憶が夢の中で再生されているのだ。

 優香はベッドから抜け出て台所へと向かった。

 冷蔵庫を開け、ペットボトルに口をつける。

 ごくごくと生々しい音をたてて水を飲む。

 一本も飲みきる頃、やっと理性を取り戻せたような気がした。

 

 冷蔵庫を背にずるずると尻餅をつく。

 無機質な冷蔵庫に寄りかかる。わずかにモーター音が聞こえる。

 住宅街にある優香の部屋は静かだ。

 しんと静まりかえった闇の中、優香はペットボトルのキャップに口を押しつけた。

 優香には悪癖がある。

 部屋の扉を閉め切らない所だ。

 細く開けられたドアの向こうからは、かつて寝息が聞こえてきた。

 結婚の約束をして同棲していたリョウの寝息だ。

 リョウは寝つきがよく、穏やかな寝息をたてて寝る。

 夜中にこっそり起きて、キッチンで優香はお茶を飲むことがあった。

 そうするとリョウの寝息がBGMに……なんてことはしばしばだった。

 その時は「よく寝るなぁ」とぼやく程度に思っていた……。

 今振り返ると胸がしぼられるように苦しくなる。

 もう二度とこの部屋にリョウは戻らないかもしれない。

 二人で過ごした日々はもう取り戻せないのかもしれない。

 不安がすっぽりと毛布のように優香を包んできた。

 それを自分から剥がそうとするが、優香の心の隙間に入り込んでくる。

 

 やめて――――やめて――――やめてやめて――――!

 

 優香はぎゅっと目をつむった。

 体が震えそうなのをこらえる。

 唐突な不安に襲われるなんて、リョウがそばにいたときには考えられなかった。

 もしこんな状況がリョウにいたときに起きたとしたら、彼はどうしただろう。

 驚くかもしれない……でも最後には優香の味方になってくれただろう。

 その優しい腕で抱きしめてくれるかもしれない。

 

 けれどリョウはここにいない。

 白い壁の病院の、四階の病室にいる。

 今、リョウは寝られているのだろうか。

 

 一年前のことだ。

 リョウと一緒に出かけていたら、リョウは血を吐いて倒れた。

 自分にとんでもないことが起きているというのに、リョウは謝った。

 優香が着ていたワンピースが、血で汚れたことを気にしていたのだ。

 馬鹿だなと思う。緊急事態なのに。

 同時にリョウらしいなと思う。

 

 リョウは病院に搬送され、検査の結果。

 現在では治療が不可能な病気だと診断された。

 血を吐いて倒れた今はまだ状態としては良いらしい。

 いずれは体全体が衰弱して、延命治療すらおぼつかないという。

 リョウの診断は、リョウと、リョウの家族と、優香で聞いた。

 優香は何も言えなくなり、リョウの家族は医者に詰め寄っていた。

 しかしリョウは――――――――。

「うん、じゃあどうしようかな」

 あっけらかんに言ったから驚いた。

 医者の診断に、優香は話せる状態ではなくなった。いったん席を外した。

 リョウは優香のいない間、医者から自分にはどんな選択肢があるのかを詳しく聞いたらしい。

 そのうち優香の状態が回復し、リョウがいる病室に行った。

 すると彼は持ち込んだパソコンを使っていた。

「何をしているの?」

「仕事だよ。入院で会議には出られないから、せめて資料を作ろうと思ってね」

「ええっ」

「なんでそんなに驚くの?」

 驚かないわけがない。病気で入院しているのだ。体を休めないといけないだろう。

 そうしないと体が良くならない……と思った。途端に優香は泣きそうになった。

 体をどんなに養生しても……と思えた。自分の中がぐずぐずに崩れ落ちそうだった。

 するとリョウは優香の頭をなでた。

 優しいぬくもりを感じて、優香はリョウを見る。

 すると困ったようにリョウは言った。

「あのさ、ちょっとは奇跡を信じてみようよ」

「え……」

「俺の治療はすげぇ難しいと思う。まぁ世界で誰も完治したことがないから当然だろう」

「うん……そう、だね……」

「じゃあ、俺は世界初の完治者になるよ」

「えっ……」

 

 まじまじと優香はリョウを見た。

 リョウは大きく息を吐いた。

「まだ死ねない。俺は治らなきゃいけないんだよ」

「うん、治って……」

「ああ、優香のウェディングドレスを見たいしな」

 リョウはおどけるように言った。

 優香は目元を手の甲で拭った。

「うん、見せるよ。リョウ」

「おう、待ってろよ」

「うん……約束だからね」

「ああ、待たせて悪いな」

「ホントだよ」

 優香はすねたようなポーズを見せる。

 それからリョウの胸元に体を寄せた。

 血を吐いたがリョウの体に異常を感じられない。

 不治の病気に手をかけられているとは信じがたかった。

 絶対に何とかしよう。

 

 この時、リョウと優香は確かに誓い合ったのだ。

 

 しかし――――それから一年。

 出来る治療はすべてを尽くした。

 リョウはどんな治療も耐え抜いて見せた。

 けれども、病気は悪化の一途をたどった。

 仕事のためにパソコンを開くことも出来ない。

 意識もおぼつかない。

 努力したくても体が動かせない。

 

 余命がもう幾ばくもないことを、優香は医者から聞かされた。

 このことをリョウは知らない。リョウはたまにふっと目が覚めて、痩せた腕をわずかに上げる。

 それを優香がつかむと幸せそうに笑う。そしてまた眠りにつく日々を過ごしていた。

 

 優香は願い続けている。

 

 どうか、どうか、リョウの病気が治りますように。

 不安に襲われ、心がどうにかなりそうになる。

 それでも優香は何度も願う。

 

 どうか、リョウの病気が治りますように。

 

 それが優香の唯一の願いだった。

 

 

第二節「謎の男」

「ウィルっ! ちょっと早いよ! 待って」

 リョウと二人暮らしていた時、犬を飼っていた。

 名前はウィル……ゴールデンレトリバーだ。

 今はリョウの実家に引き取られている、今日は彼の家族の依頼で公園へと連れて行った。

 冬の空気は冷たい。木枯らしが笛吹くように吹いている。ちらほらと枯れ葉が地面に落ちていた。

 ウィルは久しぶりに優香と会えたことがうれしいのだろう。

 リードを持つ優香を勢いよく引っ張っていった。

「ちょっと、待って!」

 あまりの勢いに思わずリードを離す。

 ウィルは走りながらワォと鳴く。一瞬優香を見る。

 しかし走りはとめない。よそ見をしながら走るもんだから――――。

「おっと……」

きっちりとスーツを着込んだ男性とぶつかった。

 優香の顔が真っ青になる。慌てて男性に駆け寄った。

「すいませんっ! うちのウィルが……!」

 男は頭を横に振る。

「ずいぶん元気な子ですね……よしよし」

 男はウィルの頭をなでた。

 その丁寧な仕草から犬好きなのかと思った。

 とりあえずは怒ってないのだろう……。

 優香は胸をなで下ろした。

「ほんとにすいません……」

「びっくりしたのは確かですが。大型犬には慣れていないのですね?」

「ええ、普段はリョウが……」

 そこまで言葉を出して、ハッとする。

 そうだウィルの扱いはリョウの方がずいぶんと長けていた。

 けれど今、彼は……と思うと唇を噛む。

 すると男が言った。

「あなたの願いを叶えましょうか?」

 え? と頭をあげる。

 今、男は何を言ってるんだ。

 優香の疑問を浮かべた顔が男の瞳に映る。

 なんだろう……この男は……。

 男は悪魔のようににやりと笑った。

「あなたの願いは、恋人の病気の完治ですね……それを叶えましょうか」

 何故初対面の優香の願いを知っているのだろうか。

 そして何故自分なら叶えられると自信を持っているのだろうか。

 でも男からはそんなことが出来て当然という雰囲気が伝わってくる。

 優香は恐る恐る聞いた。

「本当に叶えられるんですか?」

「ええ、本当です」

「……」

 優香はぐっと息をのんだ。

 うさんくさいものに願いをかけるとは分かっていた。

 でもうさんくさくても、優香の願いを叶えられるのなら、何だってしよう。

 優香は拳を握る。口をゆっくりと開いた。

「なら私の願いを叶えてください」

「言っておきます。ただではありません。あなたの大事なモノをいただきましょうか」

「どうぞ、もらっていってください。私の持っているモノなら、なんだってあげます」

「その言葉、嘘でありませんね」

「……はい!」

 迷いはなかった。

 リョウの病気が治るのなら、何だって出来た。

 たとえ悪魔のように見える男の誘いだってのれる。

 リョウが生きてくれたら、それで良かった。

 むしろ男の提案が、地獄に降りる蜘蛛の糸のように感じられた。

 

 

第三節「異変」

 優香は目を丸くした。

「え、リョウが自分で食事できるようになったんですか」

「そうです……本当に奇跡です、こんなに回復するなんて……」

 優香と話しているのは、リョウの担当医だった。

 その顔には驚きに満ちている。

 そんな顔をするのも当然だろう。

 リョウの病状は転がるように悪くなっていたのだから。

 延命はわずかに可能かもしれない……しかし回復となると。

 口には出さないが、どこかしらで皆がそう思っていた。

 優香は目を輝かせた。

「もしかしたら治るんでしょうか、リョウは」

「断言は出来ません……しかしこのペースで回復していけば、治るかもしれません」

「本当ですかっ!」

 思わず大きな声が出た。それからハッとする。

 病院の廊下で二人は話していたのだ。優香はいたたまれなくなる。

 周りの棘を刺すような視線が痛かった。

 申し訳ないと思う。でも優香はうれしくてたまらなかったのだ。

 リョウが元気になる。

 リョウとまた一緒にいられる。

 そうだ、写真を撮ろう。

 写真立ての写真はずいぶん前のものになってしまった。

 新しい門出に写真を撮るのだ。

 優香の気分は舞い上がっている。

「優香、そんなに病院ではしゃいじゃ駄目だよ」

「だって、リョウが元気になるんだよ。うれしいじゃない」

「そうだけど。あーでも、退院の目処もたちそうだと聞いたし。本当に治ってるんだなぁ」

「そうだね」

 病気が治る。リョウは現代医療のおかげだと思っているだろう。

 しかしあの男が助けたのだと優香は思った。

 不思議な男だったと優香は思う。

 リョウの病状を回復するにつれ、お礼を言おうと何度も公園へと通った。

 しかし男の姿を二度と見ることはなかった。

 ただもう一度会ったとしても、優香は覚えている自信がなかった。

 顔が思い出せないのだ。あの男の出会いは鮮烈に覚えてる。

 会ったという自信もあった。けれど詳細となると……ちっとも思い出せない。

 まるで何かしらに記憶をいじくられているような気がするのだ。

 優香はその事態に首を傾げるしかなかった。

 リョウは言った。

「なあ、退院したら快気祝いに何か食べよう」

「うん、何が良いかな」

「優香の好きなもんで良いよ。確か……」

 そこで急にリョウは真顔になった。

「あれ……優香の好きなもんって何だっけ……」

「何って。リョウも好きなモノじゃない……」

「そ、そうだよな……何で思い出せないんだ……。あー、なんかすっかり抜けてるよ」

「大丈夫? 忘れるなんて珍しいね。私が好きなのはポトフだよ、リョウも好きでしょ」

「あ……そうなのか? お前……ポトフが好きなのか」

 まるではじめからその記憶がないように。

 リョウは確認するように、優香を見た。

 居心地の悪い視線だ。優香は困惑した。

 とりあえず場を明るくするために、優香は呆れたようにリョウの背中をたたく。

「忘れちゃうなんて嫌よっ。もうおじいちゃんみたいだなぁ」

「そこまで老化した記憶力じゃないよ」

「ホントかなぁ……」

「ホントだよ」

 二人でじゃれつくように会話をする。

 そうするといつもの空気が戻って、優香とリョウは笑い合った。

 優香は幸せだった。

 でも……この時、優香はまだ何も分かっていなかった。

 何も……気づいてなかったのだ。

 

 家に帰ると写真立ての写真がなくなっていた。

 外した記憶はない。どうしてと思ってアルバムを見直すと、アルバムの写真がなかった。

 すべてなくなっていたのだ。

 このアルバムはリョウとの思い出をおさめたもの。

 なくなる理由は分からなかった。

「泥棒……?」

 リョウとの写真を奪って、ある意味何になるのか。

 警察に相談しようかと思ったが、踏ん切りもつかない。

 家の中の紛失はあまり相手にされないと聞いていたからだ。

 そう思っていると……電話が来た。

 リョウの母親からだ。

「はい、優香です」

「ゆ、うか……? あら、ごめんなさい。間違えたわ」

「え、お義母さん……何か用事じゃなかったんですか?」

「お義母さん……? 何を言ってるのかしら、うちには娘はいないわ。ごめんなさいね、では」

 電話が切れた。

 リョウの母親は、優香の言葉に気持ち悪いモノに向けるような声になった。

 突然娘がいると言われたような、困惑も伝わってきた。

 呆然と優香は呟く。

「どうして……?」

 スマホの画面を見る。リョウの母親の連絡先を見ると文字化けしている。

 そしていきなり消えた。勝手に。

 どういうことなのか。

 優香はメモ帳に記したリョウの母親の電話番号を見る。

 しかし書かれていたはずのページは空欄だった。

 書いてないのか。

 いや書いたはずだ。きっちりと覚えてる……。

 でも現実には書かれてない……白紙……。

 優香は突然男の言葉を思い出した。

「あなたの大事なモノをいただきましょうか」

 まさか……大事なモノって。

 優香は頭を抱えた。

「私とリョウのつながり……?」

 言った言葉に背筋がぞくりとする。

 そして同時に、優香の目の前で、リョウのマグカップが消えたのだ。

 

 

第四節「大事なもの」

 優香は男に願って、自分の恋人の病気を治してもらいました。

 男は優香に、治す代償として、大事なモノをもらうと言いました。

 結果として恋人の病気が治り……同時に、優香と恋人とのつながりがどんどんとなくなってしまうのでした。

 日々の流れる時間が早い。

 朝を迎えたと思ったら、もう夜だ。あっという間に日付も変わる。

 時の流れは気持ちとは裏腹にどんどんと過ぎていく。

 一日一日、時間を過ぎるのが怖い。時間が過ぎるたびに、恋人とのつながりは消えていく。

 もはや今の優香はリョウの家族にも、リョウの友達にも、その存在を忘れ去られた。

 リョウとのつながりをうばわれて、ただの他人になってしまったのだ。

 最後の砦はリョウ本人だった。

 リョウはぎりぎり、優香を忘れなかった。

 もちろんつながりは日々、奪われ続けている。

 おととい、リョウは優香にプロポーズしたことを忘れた。

 昨日はどうして優香がそばにいるのか一瞬分からなかった。

 今日はいったい何を忘れるのだろう。

 リョウは優香の頭を何度もなでた。

 愛しいからなでると言うより……優香という存在を確認しているようだった。

 リョウは何でだろうな、触りたいんだと言う。

 優香は胸が痛くなりながら、リョウに身を委ねた。

 

 そして――――。

 

 リョウは病室で外を見ていた。

 いよいよ退院が近づいている。荷物は少しずつ片付けられていた。

「リョウ! 今日も来たよっ」

 優香は声をかけた。

 振り返ってリョウは自分を見る。リョウは怪訝な顔をした。

「あなたは、どなたですか?」

 リョウは優香の存在を忘れてしまった。

 

 一人きりの部屋にリョウは戻ってこない。

 もう退院しているはずだが、戻ってくることはない。

 真夜中、優香は水を飲んでいた。

 眠れなかった。泣きすぎて水分が足りなかった。

 リョウを助けた結果、こうなることは、わかりきっていた。

 リョウの病気がよくなればよくなるほど、リョウとのつながりは消えていく。

 でも後悔は不思議としなかった。

 リョウが死んでしまった方が、もっと優香はたたきのめされただろう。

 これで良かったのだ……これで……。

 優香とリョウの未来は絶たれたけれど、リョウは生きている。

 なんてそれは素敵なことじゃないか。

 また涙がこみ上げた。

 優香は目元を一生懸命に拭う。

 泣けば泣くほど、心は虚無感が満ちていく。

 日々を過ごしていけばいくほど強まっていく。

 例えば、クリスマスツリーを見るカップルを見た。

 あそこの前にいたのは自分たちなのかもしれないと思ってしまった。

 でも自分は一人だった。

 隣にリョウがいなかった、

 リョウは完全な他人になってしまったから……。

 例えば、料理を作った。

 ポトフを作った。

 それがリョウの好物で、作った量も二人分だった。

 良い具合に煮られて、二人ならきりよく食べられただろう。

 どうしてこんなものを作ってしまったのだろう。

 リョウはもう隣にいないのに。

 例えば、二人でよく聴いた曲がカフェで流れている。

 ここのメロディが好きとか、歌詞が良いよねとかたわいないことをリョウと一緒に話していた。イヤホンをふたりで分け合って、片方ずつ身につけた。

 必然的に体はくっついて、手も触れあって……優香はリョウのぬくもりを確かに覚えていた。感覚として覚えていることが、曲を聴いただけであふれ出す。

 優香はカフェから逃げるように出た。

 リョウにもう触れられないんだという事実が重くのしかかった。

 虚無感だけがいつだってつきまとう。

 優香は引きずるように、生活を続けていた。

 

 

第五節「ひかりがこぼれる」

 春になった。

 桜も咲き始めている。

 テレビでは今週の終わりが見頃だと言っていた。

 周囲は花見に行こうと誘ってくるが、優香にはとてもそんな気分になれなかった。

 部屋に入る日差しがまぶしい。きらきらと光がこぼれているようだった。

 優香は部屋で座り込んでいる。

 力ない優香の様子を親が見たら心配するだろう。

 そろそろ元気にならねばならないとは分かっていたが、どうにもできなかった。

 ため息をつきながら、喉が渇いていたことに気がつく。

 冷蔵庫に飲み物を取りに行く。すると外から声が聞こえた。

「こら、ウィル! なんでそっちに行くんだ!」

 持っていたペットボトルを落としそうになった。

 驚いて、声のした方へ向かう。玄関の向こうから声が再び聞こえた。

「だから、ここは行く場所じゃないって」

 状況はさっぱり分からないが、リョウが扉の向こうにいることは分かった。

 久しぶりに聞く声に胸が高鳴り、思わず大きく息を吸う。

 リョウ、そこにいるの?

 大きな声で問いかけようとして、優香は口をつぐんだ。

 ……リョウは私とのつながりを忘れているんだ。

 もしあったとしても、赤の他人だ。

 また、どなたですかと他人行儀に言われてしまう。

 優香は拳を握る。そしてそのままリョウの声が聞こえなくなるまで、玄関で立ち尽くした。

 偶然だと思った。

 リョウがここに来たのは偶然だろう。

 偶然の女神様の悪戯か。

 うれしくて悲しいことだった。

――――こんな偶然はもうないだろう。

 そう優香は思った。

 ところが、リョウは何度も優香の部屋の前に来たのだ。

 リョウの声を聞くたびに、思い出が走馬灯のようにかけめぐる。

 リョウの声に胸がいっぱいになる。

 リョウには自分に対する記憶はないだろう。それでも声を聞くのは幸せだった。

 しかし不思議だ。どうしてリョウはいつも困ったような声をしているのか。

 

 ある日、リョウの困った声がまた聞こえてきた。

 いつもなら部屋は閉めたままだ。

 でもその日は違った。気になってしょうがなかった。

 どうしていつも困った声をあげてるの?

 いったいあなたに何があったの?

 優香は思い切って扉を開けた。

 すると大きなゴールデンレトリバーが胸に飛び込んできた。

「ひゃっ」

 優香は尻餅をつく。

「こらっ、ウィル! 何をしてるんだ」

 リョウの声が飛ぶ。

 優香は目をつむってしまっていたが、ゆっくりと目を開ける。

 彼の愛犬のウィルと目が合った。

 リョウは優香からウィルを離して、申し訳なさそうに頭を下げた。

「すいません、うちの犬が……」

 優香はどきまぎとしながら言った。

「いえ……大丈夫です」

「怪我はないですか」

「なんともありません」

 リョウは申し訳なさそうな顔をした。

 優香は動揺する。リョウが元気そうだった。

 そうすると思いがこみあがる。

 優香は意を決し聞く。

「あの最近、うちの前によく来ませんでしたか」

 リョウは視線をそらしながら頷く。

「はい……うちの犬が、ここに来たがるんですよ。散歩につれていくと必ずここに。迷惑をかけて申し訳ないです」

 優香は言葉を失った。

 そしてまじまじとウィルを見る。ウィルはきらきらとした瞳で優香を見る。

 ワォンと鳴き、優香にすり寄った。

 覚えてるの……?

 優香は心の中で問いかけた。

 まるでそれに応えるように、ウィルは優香に体をこすりつけ始める。

「……っつ」

 優香の頬に涙がつたった。

 止められなかった。ぼろぼろととめどもなく涙がこぼれていく。

 優香とリョウをつなぐ人々からの記憶。

 優香とリョウをつないでいた品々。

 それはすべて消えてしまった。

 

 だけど――――。

 

 ウィルは優香を覚えててくれた。

 リョウは突然泣き出した優香に驚き、声をかける。

 涙を拭おうと、ハンカチを差し出す。

 それを受け取り、涙を拭う。そして優香はリョウを見た。

 リョウと目が合う。

 愛しさがこみ上げてきた。本当に愛しかった。

 どんな状況になっても、愛すことをやめなかった。

 この人の側にいたかった。笑い合いたかった。

 でも死んで欲しくなかったから、どんなことでも出来た。

 リョウは優香の視線からそらさず、見つめ続ける。

 そして呟くように言った。

「あの、俺達……どこかで会っていませんか?」

「もしかしたら、そうかもしれませんね」

「いったい、どこで……」

 リョウが首を傾げる。

 優香は口に手を添えながら笑う。リョウに声をかけた。

「このハンカチのお礼をしたいので、ちょっとお茶していきませんか」

「え、でも……」

「いいんです。あなたなら、私お茶に誘いたいんです」

 普通なら断る話だろう。

 何を言ってるんだという話だろう。

 しかしリョウは、優しく笑った。

「そうですね……お茶、いただきますか」

「はいっ! とびっきりのをいれてあげますよ」

 優香は部屋へと案内をする。

 ウィルは玄関で待機する。

 やがて二人の楽しそうな笑い声が奥から聞こえてきた。

 ひかりがこぼれる明るいリビング。

 運命のように二人はまた笑い合った。

作品は著作権で保護されています。

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