原案:ぱず 執筆:佐和島ゆら
気に入っていたシャツだった。それを汚してしまった。作業には手慣れているけれど、完璧というわけではない。汚れることはまま、あるだろう。だがやっかいなことにその汚れは洗濯機では落ちなかった。
風呂場で汚れたシャツを一生懸命に洗う。水の音と細かな俺の息しか聞こえない。まったく困ったものだ。気に入っていたシャツだったのに。かといってクリーニングに出すのもと考えてしまう汚れだ。手洗いで何とかするしかないだろう……でも汚れは消えない。
「あー……コイツも捨てなきゃ駄目なのかなぁ」
俺はため息をついた。
それが三日前の晩だ。
ハンバーグ専門店のバイトを終えて家に帰る。大学を卒業して以来勤めている店だ。
肉をさばくのも、つぶすのも上手だと言われている。そうだろうと思う。俺はとても手慣れている。
そのおかげで仕事も定時には帰れる。今日もいつもの通り、夜の十時半には家でくつろぐことが出来た。
缶チューハイを片手にあぐらをかく。視線の先にあるのはパソコンだ。何かを調べるというより、暇つぶしでぼんやりと眺めている。渡り歩くようにサイトを見ていく。適当なリンクをクリックしていると、見たこともない動画サイトにたどり着いた。
「何だ、これ……古くせぇ」
俺は思わず鼻で笑う。俺が見たのは動画サイトだった。ニコニコ動画やYouTubeと言った有名なものには見えない……仕様がどことなく古く見えた。点滅する文字に、キリ番まで見える。前年代のサイトなのかと思ってしまった。スマホでも同じようなサービスがあるのかと検索したが、出てこない。パソコンだけで見える仕様のようだった。
「なんか、訳分かんねぇなぁ……このサイト」
チューハイを口に含みつつ、頭を傾げる。いくつも、動画を見て回ると、全ての動画は、誰かとおしゃべりするように話してばかりだと気がついた。だが少なくとも俺に向かって話しかけているような気はしない。見えない誰かに話しかけている動画の配信者は、傍から見て、独り言を言っているようにしか見えなかった。
俺は半笑いで言った。
「ははっ、気持ち悪いっ」
最初は何だろうと思ったが、皆が同じように、独り言を呟くような動画だらけで、笑いがこみ上げる。酒に酔っているせいもあるのだろう。俺は茶化すように言葉をかけた。だが、配信者はぶつぶつと独り言を呟く。うははははと俺は笑った。
そうした中で、俺はある動画に行き着いた。
女性がいるなと思った。どんな顔なのだろうとしげしげと見る。すると画面の小さな窓の女性はーー。
「こんばんは、どなたかしら……ごめんなさい。お名前を教えてくださる?」
誰に対して言っているのだろう。俺はきょろきょろと周りを見てしまった。それから喉の奥を鳴らして笑う。馬鹿らしい、またどうせ独り言だろうと思ったら。
「あなたよ、あなた……お酒を飲んでるのかしら、顔少し赤いですね」
ぎょっとした。女性はまっすぐに俺を見て言っている。
俺が見えている……? どういうことだと思ったが、すぐに疑問が解消する。パソコンのカメラ部分を触った。
「あー、もしかして生配信で話せちゃうのかな」
なるほど、テレフォンなんたら……みたいな仕組みだ。だとしたら動画で独り言をぶつぶつ呟いている人たちは、誰かと話をしていたのかもしれない。
俺は改めて女性を見た。おっ、と喉の奥が鳴る。これはなかなかのものを見つけたのかもしれない。女性はびっくりするほどの日本美人だった。
すっきりとして白い肌の顔。瞳は大きいが特段化粧しているとは思えなかった。柔らかみを帯びた笑みを浮かべている。すぅと顔の中央を通る鼻、形良いが控えめな唇。
自分と同じ二十代前半に見えるけれど……こんな美人はなかなか見ることはない。
それに何だろう……さっきからこちらに話しかけているときの雰囲気が、たおやかだった。世間から隔絶された森の中で過ごしてきた令嬢が声をかけてきていると思っても違和感がなかったのだ。俺は少し自分に笑う。
何だよ、ロマンチストかよ。
むしろ俺自身は結構鬼畜系なんだけどなぁと俺は口の端をつり上げた。
「ふふ、驚いてしまっている? 少しお話してもよろしいかしら?」
女性は俺に語りかける。
俺は愛想良く頷いた。
「いえ、大丈夫ですよ。あ、俺! 刈沢洋一と言います」
「洋一さん? 素敵なお名前ね」
「あの、あなたの名前は……」
「名乗るほどでもないわ……でも呼び名がないと困るわよね」
「そうですね」
「あゆみ……と名乗っておくわね」
「よろしくです、あゆみさん」
「ええ、よろしく」
秘密めいたものを感じさせる女性だった。
話をするのは俺からが多いが、彼女はしっかりと応えてくれる。
最近趣味にいそしみすぎて、人と遊ぶことが減ってしまったからだろう。
俺は夢中になって話しかけていた。
「そう……お肉の扱いが得意なのね」
「ああ、うん……仕事場でたくさん扱ってるので」
「大変じゃない? お肉の扱いって、はじめよく分からなかったわ」
「あー……家でも練習してるんで慣れちゃいました」
「ふふ、勉強熱心なのね」
「そんなことないっすよー。結構楽しいんで!」
俺はニコニコと笑ってしまった。あゆみに褒められたり、みとめられたりすると本当に心地が良い。慈母のような存在に褒められたような気になる。だんだん口調も緊張感がなくなり、俺はタメ口になっていった。
スマホが明るくなる。メールが届く音がする。スマホを見ると、もう寝ないといけない時間だった。思わず顔が渋くなる。
「もしかして、もう眠る時間なのね」
「そうなんだよ」
「ゆっくりおやすみなさい。明日もあるわ」
さりげない明日という単語。俺の心は高くはねた。
「そうだな。明日も話そう!」
「ええ……また明日も」
俺はテンションが上がりっぱなしのまま、パソコンの電源を切り、布団に入る。
クリスマスと正月がいっぺんに来たような幸福感と、明日への期待感で胸が膨らんでいった。
「おい、刈沢」
「なんすか、チーフ」
店のチーフから休憩中、声をかけられた。わりと仲の良い人だけれど、急に呼ばれると驚いてしまう。するとチーフはたばこを片手に、にやりと笑い出した。
「お前、最近いいことあっただろ」
「え」
俺は一瞬戸惑いの声をあげて、それから表情を崩した。
「やっぱ、分かりますかー?」
チーフもにやにやと笑う。
「分かるって、お前肉叩きながらにやにやしてんだもん」
チーフは俺が肉を叩く様を再現する。
「何があったんだよ」
「えー、それ聞いちゃいます?」
「気になるじゃないか、お前にしてはちょっと、珍しいし」
「えー」
どうしようかなと思っていたところで休憩が終わりそうになった。
俺は秘密だとはぐらかして、チーフから離れる。仲がいいとしても、彼女のことは秘密にしようと思った。たった数日、仕事が終わってから寝るまでの間しゃべっているだけだ。でもあゆみの存在は俺の中で確かに根付いているの感じていた。
それにしてもあの子って――
俺は小さく吹くように笑う。
良い感じに世間知らずだよなぁ……。
「スマホ……ですか」
きょとんとした顔であゆみは口を開ける。
「携帯電話なら、知ってるんですけど……」
あゆみの知っている携帯電話について説明されると、俺は目を丸くした。
「何それ。今時ガラケーなんて、若いヤツはほとんど使わないよ」
「あら、そうなんですか」
「うん、スマホにアプリをいれて……」
「アプリ……」
あゆみは今時のスマホ事情にとんとうとかった。俺はしょうがないなぁと自分のスマホを画面に見せながら話をする。モノを知らない人に教えるのって、こんなに楽しかったっけと思ってしまった。いやきっとあゆみだから楽しいのだろう。
あゆみは感心したように何度も頷いている。その様があまりに上品で、こんな女性が本当にいるんだなぁと思ってしまった。
「それにしてもさぁ、スマホもアプリも知らないで、あゆみはどうやって生配信してるの?」
「さぁ、何というか、どうやってやってでしょうね」
「自分でも分かんないの? えー、すげー気になる」
「ふふ、それよりも……洋一さんは」
話はそこで途切れてしまったが、あゆみの世間知らずさは俺の中でかわいく感じられてしょうがなかった。
今日はいったいどんな話が出来るだろう。俺は仕事を終えると急いで家に帰った。
あゆみに仕事の話をしていると、ふとあゆみが思い出したように言った。
「そういえば、私、料理が好きで……結構得意なんです」
「え、マジで? 料理得意なんだ、いいね」
「洋一さんも得意なんじゃないですか?」
「俺が得意なのは、肉の処理だけだよ」
「そうなんですか……」
ただ最近は少し減ったかもしれない。家で肉塊を片付ける作業は確実に減っていた。作業も楽しいが、あゆみと話すのはもっと楽しい。
それにしてもあゆみは奥ゆかしいというか、男を立ててくれる態度が気持ちいい。古き良き時代の女性と言っても良いだろう。それに料理も得意とは……家庭的でいい奥さんになれそうである。やばいなぁ、もっとしゃべりたい。会えたら最高だろう。だが急に出会い厨みたいな態度をとって、怖がられたり逃げられたりするのもまずい。
俺は慎重にあゆみと関係を築こうと思った。
あゆみと話すようになって、それなりの日にちがたった。
あゆみは終始一貫した態度だったが、俺の話にはいつでも楽しそうに頷いてくれる。
何気ない話の途中で、俺は冗談を言うように言った。
「俺、あゆみの料理が食べたいなぁ……って、思うんだけど」
笑顔を浮かべて何気ない態度をとる。結構今までになく、攻めてみたけれどどうなのだろう。俺は若干不安に感じながらも、あゆみの態度を伺った。
するとあゆみは一瞬言葉をなくし、それから何かを考えるようなそぶりをする。
そしておずおずと恥じらいを隠せないまま――
「それなら……私の部屋に来ますか?」と言った。
彼女の見えないところで俺は拳をにぎる。あゆみは小さく笑った。
「私の手料理、ぜひとも洋一さんに食べてもらいたいんです」
あゆみとの今日の会話が終わった。パソコンの電源が切れるなり、俺はガッツポーズをとった。やった、やったぞ、刈沢洋一! そんな勢いで。
あの後話は進み、手料理を食べると言うことで、彼女の部屋に行くことになった。
場所も一応聞いて把握した……よし、時間調整をしよう。うまく終電を逃せば、彼女の部屋に泊まることも出来るだろう。
「あの……洋一さん。私、あなたとなら」
俺にしなだれかかり、ベットに俺を押し倒すあゆみの姿が思い浮かぶ。
あの綺麗な彼女にようやく会えるのだ。これほどたまらない機会はない。
「やべ……想像しちまった」
俺は苦笑いした、妄想だけで暴走しそうな自分がいる。いそいそと布団に潜りこむと、満面の笑みを浮かべてしまった。俺は、あゆみと出会える喜びをかみしめていた。
デートの日になった。彼女の家はずいぶんと遠い。終電を逃す算段をしても、これは考えてしまう距離だった。夕方の六時頃家を出る。歩いていると、電柱に張り紙がされているのに気がついた。
――うちの、ルミちゃん知りませんか?
自宅から消えた猫を探していることを告げる張り紙だった。
ああ……と俺はふと思い返す。あの、三毛の猫か……と。
張り紙の写真の猫は、目を大きくした姿で映っていた。興味津々といった様子で、人に対して恐れがないのだろう。
ふっと息を抜くように笑ってしまった。
あれは、ちょろかったなぁ……と思い返しながら、俺は駅に向かった。
張り紙の存在なんてすぐに忘れ、頭の中にあるのはあゆみのことだけだった。
夜の十一時になった。俺は彼女に指定されたアパートに向かっていた。
周りは暗い。暗いどころか、しん、と静まりかえっている。電車で三時間、バスを使って一時間、それからの交通手段がないと言われてしょうがなく一時間を徒歩で費やした。
ずいぶんと寂れた場所だった。明かりがぽつんぽつんとしかない。こんな何もない場所に来るのは初めてだった。同時に俺の中で、ちょっととんでもないことが起きていた。
「Wi-Fiも通じないのかよ……」
幸い彼女の家は、画像で地図を保存していたので何とか行けるだろう。まぁあゆみの顔が見られて、それから「おいしい」展開を迎えられるのであれば、万々歳だ。
俺はニヤケがとまらず、顔をゆがめるように笑ってしまった。期待と会えるという幸福感で胸がいっぱいになっていた。
彼女の部屋だと言われた場所に着く。ずいぶんと古ぼけたアパートだった。築五十年と言われても違和感がない。こんなところに住んでいるのかと思いつつ、部屋の前に立つ。緊張で動悸がしていた。だが、ここで臆するわけにもいかない。俺は咳払いして、ノックした。
「どうぞ」
紛れもない彼女の声、俺は表情を崩さないように努めた。ドアを開ける。中はシックな作りだった。かなり綺麗な部屋である。シンプル……といえば良いのか、でもあまりにシンプルすぎた。シングルベッドにテーブル、後業務用レベルに大きな冷蔵庫しかない……。
俺がその状況を深く考え込まないうちに、女性がやってきた。画面で見たあゆみだった。
「いらっしゃい……お待ちしていました」
「こんにちは」
「この日をお待ちしてましたの。さ、座って」
あゆみにうながされて、テーブル前に座る。それにしても本当に綺麗な人だ。
画面越しで毎日話していたとはいえ、実物はもっと綺麗に見えた。心が……躍る。絶対にこれは終電を逃さないといけない。
「そういえば、ご飯、食べられました?」
あゆみは穏やかな顔を向けて話してきた。俺はぶんぶんと頭を横に振る。
「じゃあ、作っていたので食べましょうか」
そう言うと、あゆみは台所においていた鍋や冷蔵庫からごちそうを出してきた。
俺はあゆみの料理を食べられることに、前のめりになる。くすりとあゆみが笑っているような気がした。
あゆみの料理を食べる。まずはスープ、それから肉料理へ。
俺は素っ頓狂な声をあげてしまった。
「うわ、何これ」
「あら、おいしくなかったのかしら」
俺はあゆみの言葉をすぐさま否定する。
「違うんだよ。おいしいの! でも食べたことのない料理ばっかりだ」
「ああ……オリジナルばかりかもしれないわね」
俺は大きく頷いた。
「そうだよね。俺、肉料理をよく作るけど……こんなの全然食べたことない。でもすごくおいしい! あゆみすごいな」
あゆみは自分の口に手をあてて笑う。その様が上品で、頭がくらくらしそうだった。
こんな女性に食事を作ってもらって……こんな笑顔を向けられて……そしてこの後は……
俺は妄想が先走りそうになって、慌てて心を引き締めた。
「そういえば、どうです? ここまで来るのは大変じゃありませんでした?」
あゆみが聞いてきたので、俺はここまでどれだけ苦労してきたのか、冗談めかせながら話した。あゆみは俺の苦労を労りながら、楽しそうに話を聞いてくれる。
俺はふと思った。こんなに優しく俺を受け入れてくれる人はいただろうか。どこもかしこも上辺だけだと思っていたのに。俺はこの時間が永遠に続けばと思った。そうしたら……俺も……少しは……。
「眠たくなってきましたか?」
そうだな、きっとここまでが長かったせいだ。
本当に疲れてしまっていた。俺は目をつむる。睡魔がぐいっと後ろから襲ってきて、俺を眠りへと引きずり込んだ。
全てが終わったと女は思った。ドアを開けて外に出る。どんな表情を浮かべるべきなのか分からず、表情が自然と曇る。
空を見上げると夜空だった。漆黒の闇に白い星がぽつぽつと光っている。
女は思いっきり息を吸った。その瞬間、ぱたんと後ろの扉が閉まる。部屋では自分の元へと訪れた青年がよく眠っていた。
アパートの側には一人の男が立っている。女は目を開き、近づいていった。
年齢不詳、端整な顔立ちで整ったスーツを着ている。
忘れるはずのない顔だった。
女は頭を下げながら挨拶した。
「ご無沙汰しております。二十年ぶりに、外へと出ることが出来ました」
男性は感情を抱かせない笑みを浮かべながら。
「生まれ変わった気分でしょう」と言った。
女は小さく頷く。
「ええ……実際に生まれ変わったのだと思います。反省……反省ばかりの日々でした。一日一日がとても長かった……何度も発狂しそうになりましたし、そうなった方が楽だったでしょう。ですがあの部屋は、発狂することすら許されない場所でした」
男性は何も言わない。ただ微笑を浮かべ続けている。それを気にせず、女は淡々と言った。
「世の中はずいぶんと変わったのでしょうね」
「ええ……」
女も笑みを浮かべる。しかしそれには感情がこもっていない、悟った人間だけが至れるような笑みだった。
「彼が出る頃には、どんな世の中になっているでしょうね」
女の言葉に男性は言った。
「アパートは、もうすぐ取り壊しです。入り口はなくなります」
「そうですか……。では、彼はもう出ることはないのですね」
「そういうことになります」
男性は女とともに笑いあう。けれどもそこには人間らしい感情はなかった。乾いた笑いしかない。
「彼には動物のいない世界で生きていただきましょう」
女はコクリと頷いた。
「あの人は、動物虐待は、日本で裁くのは難しいと言っていました。虐待できない世界……あの部屋が、彼を罰してくれるでしょう」
そう言って、女は自分が出た部屋の扉を見た。
おわり