作者:遠坂 絵美
玄関で音が鳴った気がしてはっと振り返ったものの、そんなことがあるわけないとふと我に返って私は苦笑した。
大学生の頃から付き合っていた彼氏と、社会人になると同時に一緒に暮らし始めて三ヶ月。ついこの間大ゲンカをして、本当は私がこのアパートを飛び出してしまおうとしたのに、それを遮って淡々と必要最低限の荷物をまとめて出て行った彼の背中がまだ瞳の奥に焼き付いている。
『仕事と私、どっちが大事なの』、なんて。本当にそんなことを口走ってしまった自分が恥ずかしいし、彼の実家が近いからって彼の優しさに完全に甘えている今の状況も心が痛かった。――でも、最近彼が残業ばっかりで寂しかったのも事実で、だからこそ素直に『ごめんなさい』も『帰ってきて』も言えずにいた。
SNSをぼんやり眺めて友達と会話をしてみたりしてみるけど、それでも身近に彼がいない寂しさはぬぐえない。特に夜。こんな、雨が降る夜は、さらに。
嫌々と首を横に振りながらため息をついて、ふと壁に掛かっているカレンダーに目がいった。彼の予定を書き込む欄の方に「給料日」と書いてある。
いつだったか、男の人の字って独特の歪み方があって私はけっこう好きだ、なんて話をして彼に呆れられたことがあったっけ。……ああ、また彼のことを考えてしまった。寂しさが戻ってきてしまう。今日は早く寝てしまおう。
二人で選んだ小さなソファから立ち上がったところで、今度こそ本当に、玄関先で物音がした。そして、チャイムの音。私は急いで玄関に向かった。
恐る恐るドアを開ければ、しっとりと髪とスーツを濡らして佇む彼の姿があった。腕に大事そうに何かの袋を抱き締めている。
「寂しい思いさせて、ごめんね」
何を言ったらいいのかわからなくて戸惑う私に困ったように笑って、彼がそう言った。これ、と抱き締めていた小さな紙袋を差し出す。
「お詫び……というか、もともと買うつもりだったんだけど。受け取ってくれる?」
「……なあに?」
「その……指輪。ペアの」
「…………!」
私はもうなにがなんだかわからなくて泣きそうになりながらそれを受け取る。雫ひとつついていない紙袋の中をのぞき込めば、指輪が入っているんだろうアクセサリーボックスが二つ並んでいた。
「じゃあ、僕はこれで」
「バカ、風邪ひくでしょ。それにちゃんと説明して」
半泣きになって私が彼のスーツのすそをつかむと、彼は少し照れたように笑った。
ひととおり着替えた彼の説明によれば、ちょっとしたサプライズ――このペアリング――を買うには残業代をちょっと稼がないと足りなかったらしく、それで帰りが遅くなる日が多かったのだという。サプライズにしようと思っていたから理由の説明もまともにできなくて、結局私に悲しい思いをさせたと申し訳なさそうに話してくれた。
ほんの一時間に満たない会話で、ここ数週間の寂しさが全部埋まった気がした。なにより、この指輪が、嬉しくて。
「……指輪。してもいい?」
「もちろん。ちゃんとしたのはもっとお金貯めて買うけど、とりあえず」
私は指輪を取り出して、小さい方を自分の薬指にはめる。大きい方も取り出して、彼の手を取ってそっと薬指にはめた。
「ねえ。帰ってきて、くれる?」
やっと正直な言葉が口から出て、彼が突然私を抱きしめた。
「君が許してくれるなら、もちろん帰ってくるよ」
「うん……!」
私も彼のことを抱きしめ返す。これからも何度もケンカをすることはあるだろう。それでも、お互い思いあう気持ちは本物だから。何度でも、こうやって、仲直りしていこう。