作者:朧塚
レイカは僕にある美食店に連れていくと言ってくれた。
付き合ってから、三年目のお祝いなのだそうだ。僕とレイカが付き合った日は、丁度、僕の誕生日であり、付き合った記念日は僕の誕生日を祝う事が毎年の恒例になっていた。
レイカは、僕に似合うジーンズをプレゼントしてくれた後、ある店に僕を連れていった。
そこは都会の一等地から離れた場所で、閑散とした住宅街だった。
歩いていると、所々にヨーロッパなどの建築物を模造した家が並んでいる。不思議な空間だった。
そんな住宅街の中に、『異邦人』という名前のレストランがあった。
エスニック料理店なのだろうか。看板には、中華料理やタイ料理、インド料理、更にはメキシコ料理やレバノン料理などのメニューが載っている。ランチ・タイムもあるらしい。だが、仕事の都合で僕とレイカは、ディナーとしてこの店に入る事になった。
店内は閑散としていて、世界各国の調度品などが置かれている。
「不思議な空間の店だね」
僕はレイカに告げる。
メニュー欄を見ると、写真付きで世界各国の料理が表示されていた。
「すごいね、ここは。値段も安いし」
「ねえ、ユウジ。これ食べてみない?」
レイカは、メニュー欄の下に表記されている“特別料理”というものを指差す。値段は一人、三千円だ。僕の誕生日である為に、レイカが全部、出してくれると言う。……もっとも、彼女の誕生日の時は、倍以上のプレゼントをレイカに贈っているわけなのだが。
「なんだろう? 特別料理って」
「さあ? でも、食べてみないと。でもこの店の一番のお勧めらしいわ。他の料理は、他の店でも注文出来るけれども、この特別料理だけはこの店でしか注文出来ないみたいだわ」
店主は外国人だった。
だが、何処の国の出身なのか分からない。アジア人にも見えるが、白人にも見える。入ってきた時の挨拶で分かったのは、発音も綺麗な流暢な日本語を話せる、という事だった。
特別料理というものは、一体、何なのだろうか。
ベルを鳴らし、レイカは店主に二人分、特別料理というものをオーダーする。
しばらくして、二人分のお冷が運ばれてくる。
僕達二人は、それを口にしてみる。
味は不思議な感じがした。水なのに、何処か全身の疲労を和らげるような感じだ。レイカは微笑んでいる。十分後くらいに、スープとサラダが運ばれてきた。スープはオニオン・スープのように見える。サラダはレタスにトマトにドレッシングがふんだんに塗られている。
僕達二人は、前菜である、それらを口にしていく。
「美味しいね」
「メインディッシュはこれからよ」
レイカは笑う。
しばらくして、肉料理と堅焼きのパンが運ばれてきた。注文していたアルコールもその後に運ばれてくる。
「美味しいね。これは何の肉かな?」
僕はレイカに訊ねる。
「知りたい?」
彼女は笑った。
奇妙な空間の料理店だ。もしかすると、異界へと入り込んでしまったのかもしれない。僕は思わず、ホラー映画などのありがちな展開で冗談めかして訊ねた。
「もしかして、人の肉かな? 特別な方法で仕入れてきたさ」
「さあ? どうかしら? でも、そうかもしれないわね。でもだとすれば、どんな人間の肉を使っているのでしょうね?」
レイカはナイフとフォークで、一切れ、一切れ、肉を口にしていく。
僕も、肉を口にする。まろやかで、食べやすい。
人の肉か……。もしそうだとしても、このとろけるような味なら許せた。この店にいると、何だか背徳的な気分になる。流れてくる音楽も、何処か民族的なものであり、宗教曲のようにも思えた。
「ねえ、ユウジ、知っている? 何処かの地方のお話だと、人の肉を食べるのは、その人の力や才能を得る為になんですって。面白い話でしょう。たとえば、この肉が人の肉だとして、生きている時は、どんな人間だったのかしら? スポーツ選手だったら、運動神経がよくなったり、ピアニストだったらピアノの腕が上がったり、数学者だったら、特別な数式とかを解けるようになるのかしら?」
彼女は微笑む。
二人共、アルコールが回りはじめていた。
度の高めのものを注文しているのだ。
飲食店の中で、こんなグロテスクな話をしているのは、他の客に不快かもしれなかったが。何故か、ここにいる客達は人では無い何かに思えた。僕達の他にも、数名程の客がいて、料理を口にしているが。その中の二組程は、僕達と同じ特別料理を口にしていた。
「本当にそういう不謹慎な話が好きだな、レイカ。飢えている国では、人の肉を食べるのは普通だってさ。世界中、何処を巡っても、そういう話はよく聞くよ」
僕は、大学時代にアルバイト代を貯めて、世界の幾つかの場所を旅行した。文化が違う為に、アジアのある都市では虫のから揚げのようなものが売りに出されていたりした。オーストラリアに旅行に行った時は、ワニとカンガルーの肉も食べた。どれも美味であり、不思議な触感がした。そういえば、欧米人はタコは悪魔の姿をしているといって、嫌ったりするらしい。食文化というものは、世界の民族によって、それぞれなんだな、と思った。
「ねえ、この肉が人のものだとしたら、先程、飲んだスープ。あれは人の魂を溶かしたものかもしれないわよ?」
レイカは妖しげに微笑む。
アルコールに火照っている時の彼女は、いつにも増して艶めかしさが漂う。まるで、男の心をたぶらかす魔性であるかのようだ。
そういえば、自分達が交際するにあたって、彼女の方から声をかけて気がする。大学のキャンバスの中だった。彼女はとても美人で、そして何処か浮世離れしている印象があった。まるで、何処か作り物めいた美しさだ。彼女の告白を、僕はすぐに承諾した。
メインディッシュの肉料理は、もうすぐ食べ終わろうとする。
おそらく、実際には羊や馬といった普段は食べないような、変わった動物の肉なのだろう。だが、どちらも口にした事がある。やはり、何の肉か分からない。
「店主に聞いてみようかな? 会計の際に。あれは何の肉なのかって」
レイカは笑った。
「私、聞いた事あるわ。以前、ここに来た事あるもの」
「ははっ、そうなんだ。まさか、カエルの肉とか?」
「違うわ」
「オットセイ? ラクダ? もしかして、ライオンとか?」
僕は思い付いた適当な動物の名前を口にする。
「うふふっ、聞いてのお楽しみよ」
そう言うと、彼女は二杯目のアルコールを注文する。
そして、デザートに苺のタルトが二人に渡される。
僕も、二杯目の酒をロックで注文していた為に、正直、ふらふらになりかけていた。アルコールにとても弱いのに、こんな日には、ついつい気が乗ってしまって、飲めないお酒を飲んでしまうのは、僕の悪い癖だった。
会計は彼女が払った。
僕はふらふらの状態で、彼女の誕生日には高級ホテルに連れていく事を約束した。
夜の街を腕を組みながら、二人で歩いていく。
これから、彼女は僕の部屋に泊まりに行くとの事だった。
「ははっ、とても美味しかったよ。ありがとう。ねえ、レイカ。あの肉は、結局、何の肉だったんだい?」
おそらく、拍子抜けする程に、普通の素材で、実は牛や豚や鳥といったものを特殊な味付けで調理したものに過ぎないだろう。けれども、得体の知れない、何かの肉を食べた、といった不可思議な背徳的なロマンスにしばらく浸っていたい為に、僕は会計の際に、店主に何の肉かを聞くのを止めた。レイカは知っているのだから。
「ユウジ。あれはね、悪魔の肉なのよ」
彼女は紅潮した顔で告げた。
「悪魔の肉?」
「そう、悪魔の肉。とても美味しかったでしょう? スープは悪魔達が集めた人の魂を素材にしたもの。サラダの中に混ざったドレッシングは人の業の感情を練り込んで生成したもの。そしてデザートの苺には、人の鮮血が使われているの。私、あの店主さんからお聞きしたのだから」
僕はそれを聞いて、思わず夜の街で他人に聞こえるように爆笑する。
「ははっ、それはいい。レイカ、僕は君のそんなところ、大好きだよ」
レイカはとても、可愛らしい。
タクシーに乗った後、数十分後、僕の住んでいるマンションに着いた。
二人でエレベーターに乗る。
明日は仕事は休みだ。
二人の時間をしばらく、楽しめる。
「ユウジ、話したい事があるの…………」
1LDKの部屋の中、僕はソファーの上に寝転がる。冷蔵庫の中にはお茶やジュースが入っている。レイカは冷蔵庫を開くと、お茶を僕の前に置いた。僕はそれを口にして彼女に礼を言う。
「飲めないのに、見栄を張るからよ。お馬鹿さん」
そう彼女は、僕の額を撫でる。
僕はしばらく、ぼんやりとしながら、彼女の話したい事について考えていた。多分、結婚の事だろう。僕は彼女にプレゼントする結婚指輪を探していた。男の面子として、こちらからプロポーズをしかった。だが、彼女の方からいうつもりなのだろう。僕は、男としての自分の不甲斐無さに心の中で溜め息を付く。
「そういえば、話したい事ってなんだい?」
僕は訊ねる。
彼女はカーテンを開く。
窓の外を見ると、満月だった。
「ねえ、ユウジ。どうしても話しておかないといけない事があるの。それは貴方と付き合おうと決めた時から考えていた事なの」
彼女の綺麗な黒髪が、満月に照らされる。
「なんだい?」
「ねえ、ユウジ」
彼女は、少し口ごもって、それを口にする。
「ユウジ。私も悪魔なの。人の魂を食べて生きる、闇の中に住んでいる魔物。この事はいつか話さないといけないと思って」
僕は、彼女の悪い冗談なのだろうと思った。
彼女は、きっと酔っているのだろう。
僕はペットボトルに入ったお茶を飲み干して、彼女の肢体を見ていた。
彼女は窓を開ける。
月の光が彼女の横顔を映し出す。
気のせいだろうか。
彼女の背中から、何か黒いものが現れる。
どうやら、それは翼だった。真っ黒な翼だ。
「ユウジ。貴方には決めて欲しいの。このまま人の世界で生きるべきか。それとも私達の世界に入るか。あの店で口にした特別料理は、通過儀礼のようなものなの。貴方はそれを口にして、私達の世界に入る権利を手に入れたわ。人の魂の溶けたスープ。人の血の混ざったデザート。最初に出されたお飲み物は、人の悲しみの涙を生成して作ったお水なの。あの店で出されるお酒も、人々の様々な感情をカクテルにして作られているわ。そして、メインディッシュである、悪魔の肉。それは貴方自身が悪魔と同化出来る……」
僕は、苦笑いをする。
レイカはどこか、空想癖のある女性だと思っていた。
きっと、彼女のいつもの事なのだろうと。
けれども、彼女の顔はいつになく、真剣だった。
そして、僕は次第に酔いが覚めてくる。
彼女の背中から生えているものは、アルコールの酔いによって生まれた、幻覚か何かではなく、確かに存在している事に。
「ねえ、ユウジ。私達の世界に入らない?」
僕は、気付けば、必死で首を横に振っていた。
今の僕は、会社においてそれなりの責任のある立場だ。大学時代のように夢を求めて、世界中を旅したりするような事はしていない。一時期は翻訳家になりたかったし、考古学者にでもなれるのではないかと夢想していた事だってある。
けれども、僕にはもうファンタジーの世界は持てない。
彼女のような存在は、僕の現実には、あってはならない。
「…………、何で、今日に決めたんだい?」
僕は素朴な疑問を口にする。
「今日は、数十年に一度の私達が生まれた世界への扉が開く日。私は子供の頃、間違えて、人の世界に残る事になった。ユウジ、貴方には私の世界に来て欲しい。今日は貴方の誕生日、私達が付き合い始めた記念日。貴方は新しい生を始めるの」
彼女は真摯な眼差しで、僕を見据える。
「レイカ。もしかして、君の世界に行けば。もう人間の世界には戻れなくなるのか?」
僕は訊ねる。
レイカは首を縦に振る。
つまり、そういう事なのだろう。自分は、もう元の世界には戻れない。
「レイカ。僕は……そこに、行けないよ。僕には、仕事がある。上司に信頼されているんだ。……そして、両親だって心配するかもしれないし……」
「そう、とても残念。貴方なら、人目見た時から、私を分かってくれるかもしれないと思っていたのに…………」
そう言うと、彼女の全身が霧散する。
彼女は無数のコウモリになって、夜の闇の中へと飛び散っていった。
後には、冷たい静寂ばかりがあった。
…………、気付けば朝になっていた。
レイカの姿は無かった。
僕は、今更ながら、初めて、レイカの事を何も知らない事に気が付いた。彼女の電話番号は知っている為に、頻繁に連絡は取り合っていたが、彼女の友人の事は詳しく知らない、ましてや彼女の実家も知らないのだ。
僕は昼頃に、二日酔いの薬を飲んで、昨日の店へと向かった。
閑散とした住宅街。
昨日向かった店は、何処にもなく、ただ空き地ばかりが広がっていた。
そして、数年が経った。
仕事こそ上手くいっているが、僕は灰色の人生を送っていた。恋人も作る気も出来ないし、ましてや女遊びにも興味が持てない。人生に何処か大きな穴が開いている。
数十年に一度、彼女の世界の扉は開かれると言っていたか。
もし、彼女が優柔不断だったあの日の僕を許してくれるのならば、数十年後の僕の誕生日に、彼女の世界に連れていって貰おうと思っている。またあの特別料理を口にして。彼女はきっと老いた僕の下に現れるだろう。何故だか、そんな確信はあった。
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