作者:松元千春
あの女を初めて見たのは、私が大学を卒業後、入社をきっかけに引っ越したアパートでのこと。証券会社で営業をすることは、文系の進路として特に可もなく不可もなくという感じ。夢なんて所詮は小さなもので、数年働いて彼氏と結婚するのが人生だと思っている。何をするかより、どこで働くかを重視し、都内の最大手という名高い会社に入社できたことを、大学も両親も満足そうな笑顔で讃えてくれた。胸を張って4月を迎えたのだ。世の中のサラリーマンが暗い顔をして電車で通勤することを内心卑下していた私は、あっという間に自分がその仲間入りをするなんて思ってもみないことだった。しかし、早朝のコーヒー当番に始まり、営業先の開拓、歓迎会という名のチームでの連夜の飲み会など毎日が奴隷のごとく縛られ、一瞬で過ぎ去る日々。私の顔は、笑うことを忘れたように頬がいつもこわばるようになった。そんな中、唯一安らげるのが、一人暮らしを始めたアパートのはずだった。寝に帰るだけとはいえ、初めて自分で手に入れた城は、どれほど快適にしようかと心弾むもの。ただ、そんな心の浮き立ちなど数日で打ち砕かれたのだ。その日、私は出社一時間前にベットで目覚ましを止めた。大きな窓の前に置いたベッドには、カーテンで遮れないほどまぶしい朝日が注ぐ。カーテンを開け、起きあがった。そこで、ふと目に入る女の姿。私の住む部屋はアパート最上階4階の角部屋だ。向かに建つのはマンションで、少々高さが異なり、私の部屋は向かいの三,四階の間にあるようだ。そして、その三階の窓際に女が一人座っているのだ。私の部屋の全身が開くタイプと違い、女のいる窓は小さく、上半身しか見えない。だが、背の高さを考えれば立っているのは不自然だ。時計を見ると六時半、彼女も朝日を浴びているのだろうか。だが、一つおかしいことがあった。彼女はサングラスをかけているのだ。気味が悪いな、初めはそう思っただけだった。遅刻しないように準備を済ませて家を飛び出した私が帰宅したのは、やはりその日も真っ暗になってからだった。
「どこにいるんだよ、そのおばさん」
週末になり、私のアパートに遊びに来た彼氏が開口一番に言う。というのも、毎朝起きてカーテンを開けるとそこにいる女の愚痴を、私は彼氏に訴え続けたのだ。
「だって、洗濯ものを干しても、ゴミをベランダに出そうとしても首を伸ばすようにしてこっちの様子を伺うんだよ。気持ち悪いじゃん。それに、いつもサングラスをかけて同じ紫色のTシャツを着ているの」
「なんだそれ。そんな奴いるか?」
「だから、あんたが睨んでやってよ! もういやだよ、この部屋。だって。あのおばさんがいついないのかなって、私この一週間試したんだもん。六時半にいるから、おとといは五時に起きたの。それでも座ってこっち見上げているし、昨日なんて早く帰らせてもらって六時に家に戻ってみたら、またいるし」
「任せとけ。俺が言ってやるよ」
同い年の彼氏は大きいことをいう割に、小心者なのは承知していた。だが、その後の対応はどうするにしても、まずは睨んでもらって悪くないだろう。部屋を横切り窓辺に立った彼は、カーテンの隙間から覗き込む。
「どいつ」
私は、すべての行動を監視されているような恐怖から、窓辺に立つことさえ体が拒絶するようになっていた。洗濯物も部屋に干している。
「前のマンションの三階。窓辺にいるでしょ」
「え、だからどれ」
「黒髪が肩くらいのサングラスをしたおばさんだよ!」
共感してくれない彼氏に怒りさえ湧き、思わず叫んだ時だった。彼氏が振り返り言う。
「お前、何を見ているんだ?いないぞ、そんな奴」
何を言われたのか、すぐに理解できなかった。霊感なんてない。誰にも見えないものが、自分に見えるなんて……。
★
数週間後、私は電車で帰省することにした。あの女の姿が見えない彼氏は、私がその話をすること極端に嫌がるようになっていた。しかし、決して消えない女が気になって、最近では夜も眠れないようになっていたのだ。出勤する時や、帰宅する暗い時でさえ、上から覗かれている気分だ。唯一、私の心が頼れるのは、実家しか見当たらない。友達と遊んで気を紛らわすことはできても、毎晩一緒にいてくれるわけではない。心の底から安心して、一晩でも眠りたかった。帰省とはいえ、実家は都心から二時間ほど。電車の揺れさえ気持ちよくて目をつぶると、いつのまにか地元の駅に着いていた。進学校に通い、大手の会社に入社した私を誇りに思ってくれる両親に心配をかけてはいけない、と心地良さを求める一方で背筋を伸ばす。一人暮らしをするというだけで、特に母親は涙を見せるほど心配した。楽しく過ごそう、自分に説く。天気は快晴。真っ青に晴れた空が、駅のホームを明るくする。改札を出た私は、少ないながらも小さな旅行鞄を肩にかけた。
「おかえり!」
改札を出てICカードを鞄にしまうと、右肩に手が添えられる。見上げて、思わず悲鳴をあげそうになった。目の前の『あの』女が、サングラスをはずす。
「似合う? それとも若づくりかな? お母さんがサングラスなんて」
どうして、気づかなかったのだろう。あの女が、母にそっくりだということに。あれは、私を心配するあまりできあがった、母の生き霊なのだろうか。私はあの部屋で、どうやって生きて行けばいいのだろう。