最後の教室

↑「あとで」は、しおり代わりに使えるよ↑

作者:桜 きさらぎ

 


 

 美衣は目の前のバレエシューズを眺めていた。この教室に通うのも今日が最後になる。そうしたらありさとも別れ別れになってしまうのだ。
 
高校二年の終わり頃、もう三月になりそろそろ桜が咲こうという季節になった、まだまだ肌寒いがそれでももう冬の厳しさはない。徐々に明るい春がやって来ている。
 
美衣は駅近くの高層マンションの四階にある自宅から出てバレエ教室に向かった。教室は最寄駅から電車で十三分ほどのところ、三駅目になる。駅から七分くらいでそこに就く。

ここは東京の郊外であり、緑豊かな地で小鳥もよく見かける。でも大型スーパーやショッピングモール以外には、これといって面白いものもない。東京と聞いて地方の人たちが思い浮かべるような、華やかで流行最先端の地、というのとは全く違うのである。

小さめのビルの二階にバレエ教室がある。昭和の時代からあるので娘をここに通わせる親たちからの信頼は高いが、ビルも教室も古ぼけていて、なんだか冴えない感じがするなといつも思ってしまう。

テレビや雑誌で見かけるような、都心部の洒落た最新のビルにあるような教室に行ってみたい。別にバレエでなくてもいい。
それでも美衣には、ここに熱心に通うだけの理由があった。それがありさの存在である。美しい世界と自分をつなげてくれる同い年の少女。高校二年で十七歳。別々の高校に通っている。

今日は日曜日だ。週に一度の練習の日。でもそれももう今日で最後だ。
 
美衣は教室に入ると、他の生徒たちに挨拶をして着替え室に向かった。その中は生徒の数の割にはやや手狭だが、いつも少女たちの使うコロンやシャンプーなどのほのかな良い香りがした。

教室も着替え室も、古ぼけているとはいっても、きれいに手入れされていて不潔な感じは一切しない。程よく昭和のにおいがしてそこが良いというレトロ好きもいるくらいだ。

美衣は特にレトロ好きでも昭和の昔に関心が強いわけでもないが、新しいビルには感じられないような、どことなく落ち着く感じは確かに気に入ってもいた。
 
入り口のすぐ近くのロッカーの前にありさがいた。ありさは長い黒髪をアップにしてまとめ上げ、きれいにバレエの練習用衣装を着ていた。

「おはよう」

 ありさの方から美衣に気が付いて声をかけてくれた。

美衣がバレエを習い始めたのは中学に入ってからだ。だがありさはもっとずっと小さい頃からやっていた。小学一年生からすでに始めていたという。

修練の差だけでなく、もともとの素質の差もあるのだろう、彼女の姿勢は常に気品があって美しく、動きもまた実に優雅だった。

美衣はいつも思った。ああ、本当にありさはお嬢様なんだなあ、と。そこには羨ましさも妬みもない。人はあまりにかなわないと思ってしまう相手のことには、あこがれや敬意は抱いても妬んだりは出来ないものだ。

 ありさは、この現代日本で普通の美的感覚の人なら、誰もが美少女と認める容姿の持ち主だ。切れ長の、品のある目は長めのまつ毛に縁取られている。その優しくてもはっきりとした眼差しで見つめられると、美衣は同性なのに少しどきどきしてしまう。

唇は小さくても形がよく、張りのあるピンク色。肌は桜色に上気したようで、すんなりとした四肢にほっそりとした身体。背は高めだが高過ぎるほどではない。何もかもが測って作られたように端整だった。

「美衣は今日で最後よね」

「うん……」

「寂しくなっちゃうわ」
 美衣は服を着替えながらうつむいた。

「でも受験があるし。ありさのところみたいに大学までエスカレーターじゃないから」

「そうよね」
 
ありさはそれ以上何も言わなかった。お嬢様学校に小学生の頃から通わせてもらっているということに、「自分の努力ではなく、親の力で楽している」という引け目があるのだと美衣は思っている。

でも引け目なんて感じる必要あるだろうか。恵まれない子がその子のせいではないように、ありさが裕福な良い家の子なのも彼女のせいではないではないか?

何より美衣はただの一度も、ありさが生まれ育ちを鼻にかけたことがないのを知っている。少なくとも自分は、親のお金で大学に行かせてもらえるだけまだましなのだ。通っている中堅クラスの公立高校の実態を美衣は思った。

「教室が終わったらどこかでお茶しない?」

「うん」
 ありさから誘ってくるなんて珍しい。大抵は自分がその都度勇気を振り絞って彼女を誘うのに。

「今日は美衣とここで会えなくなる特別な日だから、吉祥寺まで行ってあのネコ喫茶に入りましょう」

 吉祥寺までは電車でだいたい三十分以上かかる。別に負担になる時間でも交通費でもないが、ありさの強い気持ちを感じ取った。

「うん、ありがとう!」

 美衣ははずんだ声で礼を言った。同時に心が沈むのを感じる。こんな風にありさと教室の外で会うのも、もうこれきりになってしまうかもしれない。

 バレエ教室というつながりがなくなったら、そこそこの会社に勤めるサラリーマンの娘と、江戸時代から続く老舗の和菓子屋の社長令嬢との間に、どんな関係が続くというのか。

 そんなことを考えているうちにバレエの練習の時間が始まった。少女たちは着替え室を出て、フローリングの床のレッスン場に出てきた。レッスン場の一面の壁は総ガラス張りになっている。

このクラスでは、もうバーに掴まることはない。十人の少女たちは床に並んで、つま先立ちで片足を高く上げ、クラシック音楽に合わせて優美に踊ることが出来た。
 中でも一番姿も動きも美しく洗練されているのは、ありさだと美衣は思っている。多分他の生徒たちも、先生もそう思っているに違いない。

日曜日の午後のこの教室は、三十代半ばの、そこそこキレイといえる先生が教えている。昔はヨーロッパの有名な劇場で踊ったこともあるという実力の持ち主だ。中野先生と生徒たちは呼んでいた。

「宮原さんは今日で最後なのよね」と中野先生が声を掛けてきた。

「はい」

 先生とも他の生徒たちとも別れ別れになるんだ。美衣はそう思って少し悲しい気分になった。みんなが自分を見ているのが分かる。

ありさ以外の女の子たちともそこそこ仲は良かった。だからみんな、少しは残念に思ってくれるだろうか。

「それでは、最後まで気を抜かずに、今日も頑張りましょう」

「はい、中野先生」

 それからいつも通りのレッスンが始まった。

 静かにピアノの音楽が流れ、それに合わせて少女たちはバレエを舞って見せる。足をピンと高く上げ、片腕をしなやかに曲げて高く掲げる。足先から指先まで、少しも気を抜かずに集中する。そうして先生の指導に従い、細部まで動きや姿勢を直してゆく。

 でも、もうこれも最後なんだ。少なくとも、受験が終わるまではここには戻ってこられない。戻ってくる時には、みんなとの差が開いてしまっているだろう。

 美衣は仕方ないことと思いながらも胸が詰まる気がした。

 そうやって一時間半のレッスンが終わった。いつものように、いつもの時間に。ちょうど午後三時半だった。

「それでは今日のレッスンは終わりです。お疲れさまでした」
 中野先生がそう告げると、生徒たちはおじぎをして、お礼を言った。そしてそれぞれ仲のいい者同士で集まって語り合い、着替え室に入ってゆく。

「宮原さん、お疲れ様。今日までよく頑張ったわね。受験が終わったらまた戻ってきてくれると嬉しいわ」

「はい、私もそうしたいです。ありがとうございます」

 美衣は中野先生の前で少し顔を赤らめた。美衣はこの中で決して目立つ方の生徒ではないから、先生に特別に目をかけてもらうことはこれまでなかったからだ。

 着替え室に入ろうとして振り返るとそこにありさが立っていた。ありさの方から美衣に近づいてきてくれるなんて滅多にないことだった。

「さぁ、着替えてネコ喫茶に行きましょうね」

「うん!」

 それからありさと二人で着替えを済ませ、目的地に向かう電車に乗っている間、美衣はとても幸せな気分だった。

 ネコ喫茶のある吉祥寺の駅まであと少しという時に美衣は思い切って、今まで言えなかったことを言った。

「ありさに出会えてとても幸せだったよ。ありがとう、ありさ」

 ありさは何も言わず、ただ黙ってうつむいた。やがて顔を上げると、小ぶりの上質そうなバッグを開けて中を探る。

そこから、薄黄色の小さく薄い紙袋に、金色のシールが貼られた物を取り出した。

「これ、あげる」

「え……?」

「最後のお別れだから。買っておいたの」
「あ、ありがとう……!」

 中に入っているのは何だろう? 大きさや感触からするとハンカチだろうか。ありさならきっと品もセンスも良い物を選んでくれたに違いない。

「戻ってきてよ、受験が終わったら。一浪や二浪くらいしたっていいわ。私は待っているから」

「ありがとう、でも浪人は出来ないよ。うち余裕ないから。浪人するくらいなら、格下の大学か、いっそ専門学校に入れって言われてるの」

「そう……」

 ありさは再びうつむいてしまった。美衣はしまったと思う。別にありさの言葉を責めているわけじゃない。うちが金持ちじゃないのは、ありさのせいじゃない。

「ありさ、ありがとう。これ、大事にする」

「受験で大変だろうけれど、時間があったら電話かメールをしてね。それから、たまには会いましょう。美衣なら私の家に来て勉強してもいいって、両親が言っているから」

「え、ほんとう……?」

「もちろんよ、嘘なんて言わないわ」

 その時ちょうど吉祥寺の駅に着いた。二人は人の流れに乗って電車を降り、駅の外へ向かう。

 美衣は歩く足取りがかすかに震えているのを感じていた。それはもちろん、恐れや不安からではなかった。

 雲の上を歩いている気分、というのとは違う。でもきっとそれに近い幸せな気持ちがしていた。

終わり

作品は著作権で保護されています。

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