作画:chole(黄泉子)
僕が昔住んでいたアパートは70年代に作られたもので、見た目も中身もとても古いものでした。
その分、都会で駅に近いという好立地にも関わらず、家賃がかなり安かったのが金のない新卒社会人にとってありがたかったです。
そのアパートは一人暮らしに丁度いい広さで、僕にとって住みやすい場所でした。唯一不満だったのは、壁の小さな穴です。
人差し指が入るくらいの小さな穴で、隣の部屋が見えてしまうほどぽっかりと開いていました。
普通は管理会社や大家が入居までに直すものですが、ボロアパートなだけあってそこら辺は杜撰です。言ったところで「穴のひとつやふたつでゴチャゴチャ言うな」と一喝されるだろうことは目に見えています。
仕方ないので、しばらくはアニメのポスターを貼り付けて誤魔化していました。
入居して数か月が経った頃。夜布団で寝ていると、何やら隣から物音がしました。
壁の向こうでガタガタと音がします。お隣さんが何かしているんだろう…しかし、僕はお隣さんに会ったことがありません。
うるさいな、と思って壁を見たら、穴を塞ぐために貼り付けていたポスターが剥がれていました。姿を見せた穴は、隣の部屋の明かりで淡く光っています。
僕はなんとなく、その穴を覗いてみました。それはとても自然な動作でした。
小さな穴を覗き込むと、髪の長い女性が裸のままタオルで髪を拭いていました。濡れた髪と白い肌に僕はドキリとし、興奮しつつもとんでもないことをしてしまったと自分の行動に後悔しました。
僕はすぐに穴をポスターで塞ぎ、見ないように見ないようにと自分に言い聞かせて生活をしました。
しかし家に帰ると、ことあるごとに隣人の女性の姿が頭にチラついてしまい、どうしても視線があの穴の方へ向いてしまいます。
お隣さんには入居以来一度も会ったことがありません。正直、誰かが生活しているという空気すらあまり感じないのです。でもたまに夜中になると物音が聞こえていますので、その時は家にいるのでしょう。
初めて穴を覗いた日から1か月ほど経ったある日の夜。僕はお隣からの物音で目を覚ましました。
あの日の女性の裸体を思い出し、僕は布団から起き上がりポスターを剥がして穴を覗き込んでいました。
穴の向こうには、髪の長い若い女性がちゃぶ台のようなテーブルの前に座っていました。よく見ると、手には小振りな包丁(果物ナイフのような)を持っています。
彼女は両手で包み込むように包丁を持ち、テーブルの上に垂直に立てています。
荒い呼吸を繰り返しているのを見て、僕は「もしや…」と嫌な予感がしました。
一瞬。彼女は僕を見つめました。
気のせいではありません。確かの彼女は、長い前髪の隙間から、じっと壁の穴を通して僕の顔を見つめたのです。
そして彼女は勢いをつけて垂直に立てた包丁の上に上体を倒しました。ちょうど喉の辺りに包丁が刺さるように…
僕は「あぁ…!」と裏返った悲鳴を上げて部屋を飛び出しました。裸足のまま隣のドアをガンガン叩いていると、下の階に住んでいる一人暮らしの老婆がパジャマ姿でやって来ました。
どうしたんだと聞かれ、隣の女性が包丁で自殺したところを見たと言ったら、老婆は真顔でこう返しました。
「あんたのお隣さんは最初からいませんよ。そこはずぅっと空き家なんだから」
今から随分と昔に、この部屋で若い女性が亡くなったそうです。僕はゾッとしました。
「あんたの前に住んでた人も、穴の向こうにいた女がどうとか言ってたわ。悪いことは言わん。さっさと引っ越しな」
「それは、心霊現象で呪われるから…とかですか?」
「違う、違うよ。そういうんじゃなくて、前の住人はそれ以来引きこもってしまってね。一日中穴を覗いてばっかりいたみたい。何かにとり憑かれたみたいに…」
その後僕は、異動もあって引っ越すことになりました。あの夜の後も、なんとなく穴を覗きたいという気持ちがもたげて来たことがあります。あんなにショッキングなものを見たというのに、なぜなのだろうと不思議で仕方がありません。
今も僕は時折夢を見ます。覗いた穴の向こうで、微笑む女の夢を。
背筋がゾクリとしたっ……。
次:猫好きの女
引っ越した先のアパートの壁に穴が空いてたら、嫌だろうなぁ。
おいらなら、必死で穴を塞ぐよっ。