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作画:chole(黄泉子)

俺が大学生の時に住んでいたアパートは、お世辞にも新しいとは言えないものだった。
バブル崩壊後に建てられたもので、これまで日本を襲った大地震によく耐えて来たなと思えるレベル。次にでかい地震が来たら間違いなくアウトだと思う。
そんなボロいアパートなので、防音性なんてものは無いに等しい。
アパートの住人のほとんどが、俺のような学生や独り身の若い社会人ばかりだったので、昼間は静かなものだ。しかし夜になると、廊下を歩く足音やシャワーの音…テレビから流れて来る音楽やドラマの音が聞こえて来る。
生活音は仕方ないにしても、ひどいのは人の話し声だ。甲高い声で長電話をする女の声や、友達と酒盛りをする学生の笑い声…痴話喧嘩も聞こえてきたっけ。
プライバシーなんてあったもんじゃない。他人の声が聞こえてきているということは、俺の声も聞こえているということだから、気を使って生活していたよ。
俺の部屋はアパートに2階にあって、隣に住んでいるのは若い男だった。25歳くらいで、スーツ姿のところをよく目にしていた。恐らく会社員か何かだろう。
なかなか愛想がよく爽やかな雰囲気の若者で、廊下で会ったら挨拶くらいはしていたな。上司のウケが良さそうなタイプだ。
彼は友達を家に連れ込んだりすることは無かったが、いつの頃からか若い女を連れ込むようになった。
その女は一度しか見たことが無いけど、男と同い年くらいの美人でもブサイクでもない月並みの容姿の女だった。一人暮らしの男の部屋に連れ込むくらいだから、きっと恋人だったんだろう。
彼女を連れ込んでも、その男はお上品だった。会話の声がほとんど聞こえなかった。大抵誰かを連れ込むと、会話している声が聞こえて来るものなんだけど、静かなもんだったよ。たまに女の声が聞こえて来るけど、男の方はもそもそとくぐもった声が聞こえて来るくらいで、2人がどんな会話をしているのかは分からないほどだった。
お隣さんである俺に気を使ってくれていた…とは思えないな。普段から物静かなカップルだったんだろう。
ある日のことだった。その日は飲み会シーズンの真っ只中で、俺以外の住人は夜になっても帰って来なかった。
今夜は静かな夜を過ごせそうだと思い、借りて来たDVDを観ていた。
22時を回った時、階段を上がる音が聞こえて来た。2人分だ。隣に住む男がまた恋人を連れて来たのか。案の定、足音の主はそろって隣の部屋に入って行った。
まあ、お隣さんは普段から静かに過ごしているから問題ない。2枚目のDVDをセットして再生ボタンをつける。1枚目の時は使っていなかったが、隣に迷惑をかけるかもしれないのでヘッドフォンをつけて戦争映画鑑賞をすることにした。
ヘッドフォンから大迫力の砲弾の音が聞こえて来る…しかし、砲弾の音とは違う音が俺の耳に入り込んで来た。
ゴッ…ゴッ…
映画の中の音とは違う、鈍くて低い音だ。ヘッドフォンを外すと、その音は隣から聞こえてきていると分かる。
今まで聞いたことのないものだった。何かを床に落としたのだろうか…それにしては物騒な音だ。
うるさいな…と思っていたが、すぐに止んだのでもう一度ヘッドフォンをつけて映画に集中した。
静かな場面が続いていると、外部の音が嫌でも耳に入って来る。お隣さんがクローゼットを開ける音や、ドアを開け閉めする音、何かを広げるガサガサという聞き慣れない音色まで聞こえて来た。銃撃戦の場面だったら気にならない程度のものだが、台詞ばかりの場面だとかえって耳につく。
今夜のお隣さんは、いつになく慌ただしいな…。そう思い始めると、どうも集中力が切れてしまう。
俺はヘッドフォンを外し、台所にビールを取りに行った。
その時…
ゴリッ…ゴリッ…ゴリッ…
重たく、耳の奥にまとわりつくような音が、隣から聞こえて来た。
まるで石臼を挽くような、生活音とは思えないものだ。それは規則正しく、一定の間隔を開けて聞こえて来る。
「ったく、なんだよ…うるせぇな」
話し声なら良いが、こうも聞き慣れないものを夜遅くに聞かされたのでは、たまったもんじゃない。さすがの俺も嫌になり、隣の男へ注意をしに行くことにした。
俺の部屋と同じ形状のドアの前に立ち、ベルを鳴らす。すぐに中から「はい」と声がして、男が僅かにドアを開けて姿を現した。
「隣に住んでいる者ですけど、ちょっと…音が気になるので、少し静かにしてもらっていいですか?夜遅いんで…」
「あぁ…それは。お休みのところをお邪魔してしまって申し訳ありません。気を付けますので…」
「いえいえ。こちらこそ。夜分遅くに失礼しました」
お互いにこやかに「おやすみなさい」と言い合い、俺は自分の部屋に帰った。これで少しは静かになるだろうと、ビールを飲みながら映画鑑賞に戻る。映画は山場に差し掛かり、激しい銃撃戦と砲弾の嵐で生々しい轟音が飛び交っていた。ヘッドフォンをつけていると、さらに臨場感が増す。まるで自分が戦場にいるような錯覚すら覚える。
だが、そんな妄想を打ち消すように激しいシャワー音が隣から響いてきた。
お隣さんがお風呂に入っているのだろう。どうせすぐに上がるはず…と思っていたが、想像以上にシャワーの音は長く聞こえていた。
時間にして20分は経過している。その水音に混じるように、
ゴリッ…ゴリッ…ゴリッ…
と、先ほども聞こえた不愉快な音も耳に入って来た。
シャワーの故障か?それにしても、長すぎる。
ざぁぁぁ…ざぁぁぁ…
ゴリッ…ゴリッ…ゴリッ…
ざぁぁぁ…ざぁぁぁ…
ゴリッ…ゴリッ…ゴリッ…
ずっと頭の中に響いて来る音に、映画を楽しむ余裕はすっかり失われてしまった。あるのは音と隣の男に対する苛立ちだけだ。
俺は部屋を出て、再び隣の部屋のベルを鳴らした。また「はい」という声と同時にドアが細く開かれる。
「あの、ちょっと静かにしてもらえませんか?今何時だと思っているんですか。ずっとシャワー出しっぱなしですよ?もしかして故障ですか?こういうこと年上の人に言いたくないんですけど、お願いですから静かにしてください。迷惑です」
俺の苛立ちを受けて、男は困ったような顔をして頭を下げた。
「本当に、申し訳ありません。すぐ終わります。本当に、もう少しで済みますので…申し訳ありません」
その言葉を受けて、俺は何も言い返せずに部屋に戻った。すぐにあの音が聞こえてきたが、先ほどよりもシャワーの音は控えめだ。
もう少しで済むという言葉の通り、数分で音は止んだ。その後はドアの開閉音くらいしか聞こえて来なかったが、15分程して誰かが部屋を出て行った。ゆっくり階段を降りる音が聞こえ、俺はなんとなく窓の外を見下ろした。眼下には狭い駐車場が見える。
その駐車場を、隣の男が黒いボストンバックを肩から下げ、ワインレッドのキャリーバックを引いて歩いていた。軽自動車に乗り込んでどこかへと去っていく。
おいおい、彼女を部屋に置いて家出かよ…。鼻でせせら笑い、俺は静かになった部屋の中でビールを煽った。
それから数日後、隣町の山の中から遺体が出たというニュースが報じられた。
首をのこぎり状のもので切断された若い女性で、死後数日は経過している。遺体はそのままの状態で遺棄されたわけでなく、ニュース映像によると黒いボストンバックに首を、ワインレッドのキャリーバックに小さく折り畳んだような状態で体が詰め込まれ、バックごと山の中に捨てられていたようだ。
そういえば、あのバックはどちらも見覚えがある…。
隣の男は、あの夜以降姿を見ていない…。
今はもう引っ越して、防音のしっかりした部屋に住んでいるよ。
もう二度と、あんな音が筒抜けのアパートなんかに住みたくないね。首を切断する音が聞こえて来るかもしれないんだから。

おいら、やっぱり、古いアパートは怖いよっ……。
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古いアパートって、雰囲気あるよね。
おいら、雰囲気のあるアパートって好きだなっ。