前:木箱の骨
作画:chole(黄泉子)
高校の頃、バス通学をしていた時期があります。
私の家から学校までは、自転車で30分ほどの距離でしたが、部活で足を怪我してしまい、怪我が治るまでの1か月間は毎日バスで行き来をしていました。
大きな街なら、駅前に綺麗なバスプールがあるんでしょうね。残念ながら、私の地元のような田舎町にはそんなものはありません。
昔の映画に出て来そうな錆び付いたバス停…その後ろにそっと佇む屋根付きの狭いベンチ。昭和30年代からベンチだけがタイムスリップして来たかのような、それはそれは古臭いものでした。
初めてこの町に来た人が見たら「このバス停は観光用のオブジェかな?」と錯覚してしまうでしょう。
そんな骨董品のようなバス停から、一時間に一本の貴重なバスに乗っていました。
私が乗っていたバスは7時半発のものです。部活の朝練習がある時だけ、6時半の始発に乗って学校に行っていました。
夏休みを目前にした、7月の半ばのことでした。
その日私は、部活の朝練習に行くため6時半の始発を待っていました。
怪我をしているのだから練習に参加しなくていい。そう顧問の先生から言われていましたが、足が使えなくても出来ることはあります。審判をしたり、記録をつけたり、部室の整理をしたり…そういった細々としたことをやるために、朝練習には必ず参加していました。
一時間に一本しかないバスを乗り過ごすことの無いように、バス到着の15分前にはバス停にいるように家を出ました。
少し雲の多い、蒸し暑い朝でした。
猛暑を予感させるむっとした空気は、草花の水分をゆっくりと吸い上げ、その匂いが土とアスファルトと、時々通る車の排気ガスと混ざり合い、夏の匂いを作り出していました。
バス停に近付けば近付くほど、草花と土の匂いが濃くなり、心なしか肌に張り付く湿気も多い気がします。1時間前に着たばかりのブラウスは、バス停に着くころにはもう汗と朝の湿気を含んで、肌に張り付く気持ち悪さを充分に発揮していました。
これは朝練習が終わったら、別のブラウスに着替えないと…。少しだけ、心の中がどんよりと曇り出し、そうこうしているうちにバス停へとたどり着きました。
時刻は始発バス到着13分前。いつも通りの余裕ある行動に、曇った心に微かな晴れ間が見えました。
バス停には私以外には誰の姿もありませんでした。7時半のバスには、私と同じ学校の生徒が少しだけ乗りますが、6時半となると乗る人はぐっと減ります。田舎町なものですから、通勤にバスを使うサラリーマンも少なく、始発バスに乗るのは私のような部活をやっている学生か、朝の散歩で疲れた老人がたまに乗るくらいです。
色褪せた古臭いベンチに腰を下ろし、木製の屋根の隙間から空を見上げていました。
座ったことで、じっとりとした暑さがより一層強く感じます。今日は風も無いため、下敷きを使って風を生み出すことしか、外で涼む方法がありません。
あぁ…暑い…。汗で首筋がちくちく痒い…
噴き出る汗の気持ち悪さを感じていた、その時…一瞬だけひやっとした何かが、うなじを撫でて行きました。
なんだろう、まさか虫でも当たったのかな…?ポニーテールにした髪の毛が当たったのかな…?
手でうなじを撫でてみても、虫が当たった気配も、髪が触れた感触もありません。
ちらりと後ろを振り返っても、そこには暗い色の木の壁があるだけでした。
あぁ、ただの勘違いか…。油断した瞬間、
ひやぁ…
下から上へ、うなじから後頭部を撫でるように、冷たい“何か”が私に触れました。それはゆっくりと、凍らせた薄布を滑らせるような冷たさです。
ひぃっ!と思わず声を上げ、またも振り返ります。誰もいない…頭に触れても、何も付着してはいない。
さすがに今のは勘違いと思えず、その気味の悪さにぶるり…と体を震わせました。
ぶるり…震えると、途端に背中に小さな虫が這うように、ぞわぞわっとした寒気が駆け巡りました。
寒い…冷たい…気持ち悪い。
やがて背中だけでなく、頭も腕も腰や腹部まで、冷たい“何か”が私の体に触れて行きました。
物理的な冷たさと、得体の知れないものに触れられる恐怖に体中をガタガタと震わせている私に、誰かが声を掛けて来ました。
「どうしたね、寒いかね?」
皺がれたおばあさんの声です。
声のした方へ顔を向けると、一人のおばあさんが、ベンチの端に置物のように腰を下ろしていました。
いつここに座ったんだろう…おばあさんに気付いた瞬間、ふとそんな疑問が頭に思い浮かべました。
私がこのバス停に至るまで、このような老人には会うことがありませんでした。そして、バス停に来た時には、ここに誰も居ませんでした。
にこにこと私を見つめる老婆が、途端に不気味に見えてきました。
「えぇ、少し寒いです。なんだか、背中がぞわぞわってして気持ち悪くって…」
「そうかい。背中がそぞぞってするんだね。それはね、妖怪ぶるぶるってやるだよ」
妖怪ぶるぶる…聞いたことが無い妖怪です。妖怪と聞くと、座敷わらしや小豆洗い、ぬらりひょんを思い出します。妖怪ぶるぶるなんて聞いたことがありません。
「妖怪ぶるぶる?なんですか、それ。怖い妖怪なんですか?」
「いやいや。怖くは無いよ、多分ね。妖怪ぶるぶるはね、人の背後を撫でて、ぞくぞくっとした気分にさせる妖怪なんだよ」
「えぇ?ただ人を寒い思いさせるだけなんですか?」
私の問い掛けに、老婆はそうだよと首を縦に振りました。
特に何をするでもなく、ただただ人の体を撫でて、ぞくぞくと体を震わせるだけ…ブルブルと、ブルブルと。
何もせずに、ただ体を撫でるだけでも、怖い思い、不気味で気色悪い…ある意味、恐怖を煽る存在と言えます。
しかし、私は妖怪の存在など信じてはいませんでした。
この老婆のいう「妖怪ぶるぶる」も、老婆の頭の中にしか存在しないのではないか…そう感じました。
「妖怪かぁ…まさか、いるわけないですよ。私の気のせいなんです、きっと」
自分に言い聞かせ、老婆を見つめると…彼女の顔から笑みが消え、カッと溢れんばかりに目を大きく見開いて、私の顔をこぼれそうな両目でじぃっと見つめていました。
「おやおや。信じておかないと怖いよ」
搾り出すような声で老婆が呟きました。
何言ってるの、この人…
老婆自身への嫌悪感も出始めたその時、やっと始発バスが到着しました。
私は立ち上がり荷物を取ると、老婆の方へと体を向けました。
あの置物のような老婆は、もうそこにはいませんでした。
どこかへと歩いて帰ってしまった?いいえ、一瞬目を離した隙に歩いて去っていけるとは思いません。
ベンチの端は、まるで最初から誰も居なかったかのようです。
うわぁ…もしかして私、妖怪じゃなくて幽霊に会ったのかも?
友達との会話のネタを手に入れたと面白がりながら、始発バスに乗り込みました。
適当な椅子に座って外を眺めていると…
ひやぁ…ひやぁ…
何かが私の背を撫でて行きます。それは冷たく、ゆっくりとした動きで、私の背からうなじを這うように撫でていきました。
妖怪ぶるぶる…?まさか。
あの老婆の言葉が脳裏によぎります。私はゆっくりと振り返ると…
白い白い、皺だらけの“手”が一瞬だけ私の視界に入りました。
あの老婆の手に居ていたような気がします。
その日以来、何でもない時や何もしていない時に、冷たい何かを感じて体が震える機会が増えました。
妖怪ぶるぶる。それの仕業なのか、あの老婆の霊についてこられているのか分かりません。
あの時、妖怪なんているわけがないと私が否定しなければ、もしかしたらこんな風に背後に怯える日々を送る必要な無かったのかもしれません。
妖怪はいてほしいけど、取り憑かれちゃうのはイヤかも。
あははっ
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ねえ、妖怪って信じる?
おいらは、いたらいいなって思ってるよ。