作画:chole(黄泉子)
私が子供のころ住んでいた下町には古い銭湯がありました。今流行の綺麗なものではなく、寅さんの映画に出て来そうな富士山の壁絵とケロリンバケツの似合う昭和の銭湯です。今から50年近くも前ですので、そんな銭湯が町中にはまだ残っていました。
私はよく親父に連れられて夕方に入りに行っていましたが、夕飯前の時間は利用客が非常に多かったです。
仕事上がりの大工さんや、近所のじいさん、私のような子供を連れた家族連れ。たまにですが、背中に不動明王や昇り龍のお絵かきをしている怖い兄さんも入りに来てました。洗い場に貼られた鏡越しに見る倶利伽羅紋々に驚いたのを覚えています。
夕方は混み合いますが、21時くらいになると利用客はぐっと減りました。私は一度だけ、父に連れられてそのくらいの時間に入りに行った事があります。
脱衣所も浴場もがらんと人気がなく、貸切風呂のようでした。興奮した私は浴槽の中で泳いでみたり、風呂から出たり入ったりして遊んでいました。父は先に上がってしまいましたので、私一人でやりたい放題です。
3列に分かれている洗い場も気兼ねなく占領して石鹸をたくさん泡立てて頭につけたりしてはしゃいでいました。
しかし、ふと洗い場の鏡を見て見ると、私の後ろの洗い場で背中を洗っている男性の姿がありました。
他の人が入って来た、遊んでいると怒られる!
そう思い、慌てて頭にお湯をかぶって石鹸を洗い落とし顔を手ぬぐいで拭き、また鏡を見ると…そこに男性の姿はありませんでした。
湯船に浸かっているのだろうかと風呂の方に目を向けても、誰もいません。
この浴場には、私しかいないのです。
私は、途端に寒気に襲われました。何か、良からぬものを見てしまったと怖くなったのです。
早く父のいる脱衣所に行こうと立ち上がると、何か音がしました。
ひたり、ひたり、ひたり……
タイルを踏む小さな足音です。その足音は、この洗い場を回っているように感じました。
誰かいる…。ちらりと鏡を見遣ると、そこには爛れた背中を拭く男性の後姿が映っていました。鏡から目を離せずじっと息を呑んで見つめていると、その男性はゆっくりと、私の方を振り向き、にごった目でじっと見つめ返してきました。
私は叫び声をあげて浴場から飛び出し、裸のまま父に縋り付きました。泣きながら父に話すと、父は浴場へと行き中を確認しました。
しかし、やはりそこには誰の姿もありませんでした。
それ以降、私はあの銭湯に行く事はありませんでした。あの銭湯は90年代に取り壊され、今ではスポーツジムが建てられています。
そのジムに幽霊の噂があったら、それは私が見たのと同じ幽霊かもしれません。
それでなくても、お風呂場の鏡は怖いのに。
今日、お風呂に入れなくなっちゃったよー。
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怖い話を読んだ後のお風呂って、怖いよね。
今日は、そんなお風呂のお話だよ。