前:夫の秘密
作画:chole(黄泉子)
子供の頃、夢中になって読んだ絵本があります。
押入れの中に入ったら違う世界に行ってしまい、そこで主人公の少年が大冒険をするという話です。
僕が思うに、押入れという空間は子供にとって非常に夢のある空間だと思うのです。
明かりも何もない、上下に分かれているだけの狭苦しい空間…普段色んなものが詰め込まれている場所だからこそ、何があるんだろう、どこに繋がっているんだろう…と様々な想像を膨らませてワクワクする。この感覚は、子供特有のものかもしれません。
そんな夢のある空間だからこそ、僕が大好きだった絵本のような「押入れの中は異世界に繋がっている」なんて話も作られるのでしょう。
実は僕も、押入れの中の異世界を体験したことが一度だけあります。
しかしその異世界は、ファンタジックな夢とロマンに満ちたものではありませんでした。はっきりと長い時間見たわけではありませんので、僕が見たものを異世界と断定してしまうのは早計かもしれません。
ただ…僕が見たものは異世界のもの以外には考えられないのです。
あんなに不気味で、気味の悪いおぞましいものが、現実のものだなんて考えたくもありません。
あれは、僕が小学校低学年のころでした。
当時住んでいたのは、古い平屋の賃貸住宅で、両親と僕と2つ上の姉との4人暮らしでした。
平屋と聞くと狭くて暗いイメージを持たれる方が多いのですが、僕ら家族が住んでいたのは地方だったこともあり、割と広めの平屋でした。
分かりやすく言うと、アニメの『サザエさん』の家に似ていました。
和室ばかりの古い家でしたが、今思い返してみると、4人家族だと少し広すぎた気がします。しかし子供にとっては、遊び場が多い家ということで、僕も姉もこの古臭い平屋が大好きでした。
ある日、僕は些細なことで姉と大喧嘩をしました。原因はよく覚えていません。おもちゃを取ったとか、勝手にお菓子を食べたとか…小さなことだったと思います。
昔から姉は喧嘩になると、物を投げる癖がありました。ままごとセットや人形を僕に向かって投げるのです。おもちゃってほとんどがプラスチック製でしょう?あれ、当たると結構痛いんですよ。
痛い、痛いと僕も泣き喚いて大騒ぎしながら逃げ回っていました。抵抗したら余計に怒るもんですから、弟の僕には逃げる以外に助かる方法はありません。
いつもは適当に逃げ回っていれば姉の怒りも治まったのですが、この日は何故か怒りが治まらず、ずっと僕のことを追いかけ回していました。
癇癪はひどくなるばかりで、逃げ場を失った僕は客間の押し入れの中に逃げ込んだのです。客間は普段使うことのない部屋で、逃げ込むにはちょうど良い隠れ場所でした。
お客様用の布団だけが詰め込まれた押入れの中は、埃っぽく、古い衣類の臭いとラベンダーの消臭剤の香りが混じり合って、頭がくらくらするような空気が充満していました。
真っ暗で何も見えないことが、余計に嗅覚を敏感にしていたのかもしれません。
畳まれた布団の上に座り込み、じっと息を殺して姉がどこかへ行ってしまうのを待ちます。まるで忍者になったようでした。
「どこに行ったのよ!出て来なさいよ!」
キーキーと喚く声が次第に遠くなっていきます。よし、もう安心だ…。大きく深呼吸をし押入れの襖を開けようとした、その時…
ひゅうっと風が頬を撫でていきました。それは僕の背後から吹いてきたものです。
隙間風かな…いや違う。さっきまでは何も感じなかった。
何よりこの風は、雨の匂いをまとっていました。
僕は襖から手を離し、振り返りました。
そこには本来、壁があるはずです。しかしそこには、壁ではなく、ただただ漆黒の空間がどこまでも続いていました。
こんなもの、押入れに入った時は無かった…
奥へと続くトンネルのようなぽっかりと開いた空間…その向こうから、ひゅう…ひゅう…と湿気を帯びた風が吹き込んで来ます。
姉の声はもうどこからも聞こえて来ません。空間のその先から聞こえて来るのは微かな風の音と、さああ…さああ…という静かな雨の音ばかりでした。
僕がいるここは、本当に客間の押し入れの中なのだろうか…
不安になり辺りをぐるりと見渡すと、足元にはちゃんと畳まれた布団があり、上には押入れを上下に分ける仕切りが見えます。襖の内側もあります。ただ壁だったどころだけ、ぽっかりと消失しているのです。
この先には何があるんだろう…
見たことも、聞いたこともない場所に繋がっている…あの絵本のように、僕は大冒険できるのかもしれない。
不気味な空気に恐怖を覚えつつも、心のどこかでワクワクしていました。
よし。この先に行って見よう。どこに繋がっているのか暴いてやろう。
そう思い付いた、その時…
ドンッ…ドンッ…ドンッ…
突如響いた鈍い音に、びくりと震えました。
僕の頭上…押入れの仕切り板から、それは聞こえて来ました。何かが上に乗って、足踏みをするような、力強い音です。
ドンッ…と音がするたびに、古い板がミシッ…と軋み、埃が宙を舞います。
何かが、上にいる…
猫やねずみが入り込んでいる…?いや、もっと大きなものです。2本足の“何か”がいる…。体中にぞわぞわと粟立ち、息が詰まりました。そして、あのぽっかりと開いた漆黒の空間の先から…
オォォォ……オォォォ……
風の音でも、雨音でもない。喉を震わせたような悲鳴にも咆哮にも聞こえる、不気味な“声”が聞こえて来ました。
耳の奥底まで張り付くようなその声に、僕は思わず「ひぃぃ!」と声を上げ体をぎゅっと丸めました。
僕が声を上げた、その瞬間…天井の足音はさらに力強くなり、布団の下の床からは、
ギギギ…ギギギ…ギギギ…
と、木を内側から引っ掻くような不快な音が響き渡りました。カッターナイフで机を削っているような、気持ちの悪い音です…
ドンッ…ドンッ…ドンッ…
オォォォ…オォォォ…
ギギギ…ギギ…ギギギギギ…
押入れ全体を震わせる音の洪水に、僕の呼吸はどんどん荒くなっていきます。胃からせり上がる吐き気を抑えながら、ここから早く出ようと襖へと手を伸ばしました。
ほんの数cm、襖を開くと、細く光が差し込み…何かがぬっと入り込んで来ました。
それは蜘蛛の足のようにまだらで産毛の生えた細い細い、指のようなものでした…
手に触れた、奇妙な“指”に、僕は反射的に手を引っ込めました。
その“指”は襖を撫でて、ゆっくり…ゆっくりと…開いて行きます。その正体がすっかり姿を見せる前に、僕はわけが分からなくって動物のように悲鳴を上げました…人生の中で、これほど声を上げたことはありません。
しかし、僕の記憶はそこで途絶えているのです。
気が付くと僕は子供部屋に転がされていました。そばで遊んでいた姉に話を聞いたら、僕はいつの間にか一人で子供部屋に戻って眠っていたらしく、悲鳴を聞いたりもしていないと言います。
僕が見たことを姉に話しても、夢でも見ていたのよ。とまともに取り合ってはくれませんでした。
あの時僕は、本当に夢を見ていただけなのでしょうか。
いや、あれは夢なんかじゃなかった…僕は確実に、押入れの中で別の世界…異世界のようなものを体感していたのです。
そして僕が今こうしてこの世界に居られるのは、あの時“押入れから出なかった”からなのではないかと…。
きっと押入れから出てしまっていたら、僕は違う世界に行ってしまっていたかもしれません。
これから、押入れで遊ぶの怖いよ……。
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ねえ、押入れ好き?
おいら、子供の頃は押入れで遊ぶの大好きだったよっ。